実験医学別冊 もっとよくわかる!シリーズ:もっとよくわかる!脳神経科学〜やっぱり脳はスゴイのだ!
実験医学別冊 もっとよくわかる!シリーズ

もっとよくわかる!脳神経科学

やっぱり脳はスゴイのだ!

  • 工藤佳久/著
  • 2013年08月30日発行
  • B5判
  • 255ページ
  • ISBN 978-4-7581-2201-6
  • 定価:4,620円(本体4,200円+税)
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第1部 基礎編 ―システムとしての脳の理解

1章 脳はどのように理解されてきたか

形から類推できない脳の働き ―脳は不可思議な臓器

私たちの身体はさまざまな部品で構成されている.その部品の働きは形態をよく見れば理解できる.例えば,血液の循環に必至な臓器である心臓は体中に血液を送り出すポンプであり,その形はまさに液体を一定方向に動かすアナログ装置として理想的な形をしている.食道からはじまって肛門に至る食べ物の通り道,胃腸,十二指腸,小腸,大腸の形を見れば,食物を消化し,栄養分を吸収するというしくみであることを理解するのに苦労はない.肺も腎臓も比較的容易に理解できる.肝臓や膵臓などはちょっと難しいかもしれないが,それでも血管の様子や,ほかの臓器とのつながり方などを詳細に観察すれば,何とか理解できる.

しかし,脳だけは外観をいくら詳しく見てもその機能はわからない.切ってみると,液体を貯めた脳室が見られる程度で,そこから私たちが知る脳の働きを類推することは不可能である.なんとも不思議な臓器である.それもそのはず,脳は20世紀になって人類が手に入れたコンピュータと同じ原理で機能するデジタル装置であり,外観から機能を想像できる代物ではなかったのだ.しかし,それだけに人類は脳に特別な想いをかけてきたのだろう.まず,脳がどのように理解されてきたのか,エジプト時代から21世紀まで一気に展望してみよう(図1-1).

エジプト時代,そしてギリシャ・ローマ時代の脳

1)エジプト時代

記述された脳に関する書物としては“The Edwin Smith Surgical Papyrus”とよばれている古文書が最も古い.これは1862年に考古学者のエドウィン・スミス(Edwin Smith)がエジプトのルクソールの市場で発見した巻物である.2種のインクでパピルス紙に書かれた,全長で5m近くにも及ぶ巻物は,その後,翻訳され,1930年になって全貌が明らかになった.驚いたことにこの書物はエジプト時代(紀元前3000〜2500)に書かれたもので,戦いで頭部にけがをした兵士に現れたさまざまな運動障害や感覚障害について詳細に記載したものであった.その頃,すでに,脳が運動や感覚の機能の中心的役割を担っていることを見破っていたのだ.

2)ギリシャ時代

紀元前2000年以上も前から脳の機能をみごとに洞察していた人類は,その後も脳の重要さを注目し続けたに違いない.ギリシャ時代,現代でも「医学の父」「医聖」と敬われるヒポクラテス(Hippocrates,紀元前460〜370)が登場する.彼の著書“On the Sacred Disease〔神聖病(てんかん)について〕”のなかに,脳は喜び,悲しみ,苦しみなどの感情から善悪の判断にまでかかわる「知能の座」であると述べている.脳こそが人間を統べる中枢であり,「心の座」であると結論を下しているのだ.そして,「神聖・・病」と言われた「てんかん」は脳の病気であり,決して,神や霊魂がかかわる神聖病ではないと説いている.

この考えはヒポクラテスの同期生であったデモクリトス(Democritus,紀元前460〜370)やプラトン(Platon,紀元前429〜348)に受け入れられてさらに発展するかにみえた.ところが,その後,プラトンの弟子であったアリストテレス(Aristoteles,紀元前384〜322)がその考えに真っ向から反対し,当時,一般に受け入れられていた「心の座」は心臓にあるとの考え方を展開し,脳は血液を冷やすための装置であると説いた.アリストテレスは「霊魂は生命の機能としてとらえることができる」という『霊魂論』など多数の著書を残しており,この考えは当時としてはわかりやすく,また宗教的な支持もあり大いに支持され,その後も支配的な考え方となっていく(図1-2).

3)ローマ時代

もちろん,その後も脳の重要性が無視されていたわけではない.やがてローマ時代に至ると,外科的な観察から脳の機能が類推されるようになる.医学史に名を残すギリシャ人医師ガレン(Galen,130〜200)は,脊髄や脳に損傷を受けた患者の注意深い観察から脳が運動や感覚の中枢であることを見抜いていた.さらに,記憶は脳の中に刻み込まれるとも述べている.彼は脳室の形が心臓の中の心房や心室と類似していることから,脳は精気を送り出したり,取り込んだりするための器官であり,神経線維は精気を体に送り込むための管だと考えた.何しろ外観や,質感だけが手がかりである.このような結論に至ったことは無理もなく,この考えはその後も受け継がれていく.

脳研究の闇の時代 ―心臓に奪われた心の座

1)ルネサンスの時代以降

ギリシャ・ローマの哲学者の書物はその後,イスラム文化によってアラビア語に訳されて継承された.一方,西ヨーロッパはといえば,強力なキリスト教支配により,新しい科学文化の発展が閉ざされた暗黒の時代が続く.14〜16世紀のルネサンスはまさにキリスト教の呪縛から離れて,古典文化へと回帰する動きである.学者たちはアラビア語からラテン語に訳された当時の知識を学ぶことになる.アリストテレスの『霊魂論』なども西洋の学者たちに盛んに読まれたようだ.西洋の学問は教会を拠点として進められてきており,アリストテレスの説は,心臓を魂の根源であり最も神聖な臓器と考えてきた教会関係者にとっては最も快い学説であったろう.これを崩すことは困難であったことは想像に難くない.「心臓」はその名のとおり,「心の座」としての立場を譲らなかった.

しかし,このような暗黒の時代のなかでもガレンの脳についての考え方はそのまま1,500年もの間,受け継がれていた.この時代に登場した解剖学者,ベサリウス(Andreas Vesalius,1514〜1564)は,“De Humani Corporis Fabrica(人体構造論)”を著した.解剖した複数の人体の各部位を照らしあわせて,正確な解剖図を残している.この著書には,ヒトの脳についても詳しい記載を残している.脳は吸い込んだ空気と心臓から上がってきた生気を脳室であわせ「血気」に形を変えて,感覚と運動を決定するそれぞれの臓器に運ぶと説いたのだ.

2)脳は反射機能をもつとデカルトは考えた

脳が精気(animal spirits)を送り出す機械であるというガレンの考え方をさらに支持し,広げたのがフランスの哲学者デカルト(Rene Descartes,1596〜1650)である.彼は人間の行動とほかの動物との違いを,神が与えた魂の差であると考えた.これはアリストテレスの『霊魂論』の延長である.デカルトも心の座は脳そのものではなく,別のところに存在すると考えたのである.心は精神的な存在であり,これが松果体を経て脳に入ってくると考えた(二元論)(図1-3).注目すべきはデカルトが「脳は無意識でも外界からの入力に対応した反応を起こしうる」と考え,この働きを「反射」という言葉で表していることにある.鋭い洞察である.しかし,おおむねアリストテレス,ガレン,さらにベサリウスの考え方の受け売りであり,新しい脳研究や発展につながるものではなかった.

18世紀後半〜19世紀にかけて得られた脳研究への手がかり ―生物電気の発見から機能局在の発見へ

1)生物電気の発見

18世紀半ばになって,解剖によって見出されていた体中に張り巡らされた「神経線維」の本当の働きを知るための手がかりが得られた.イタリアの学者,ガルバニー(Luigi Galvani,1737〜1798)による生物電気の発見である.彼は皮を剥いだカエルの足を使って実験をする際に,鉄線でつくったフックに取りつけて,部屋の手すりに引っかけておいた.カエルの足は風が吹くと揺れて,その足の一部が手すりに触れるたびに,足がぴくぴくと動くことに気づいた(図1-4).その原因を探り,鉄線と黄銅製の手すりの間で流れる電気(黄銅と鉄の間のイオン化傾向の差によって発生)によって引き起こされたことを知ったのだ.この発見はやがてボルタによる電池の発明にも発展し,電気の研究を発展させた.

ガルバニーは発見当初,この電気は筋肉が発生するものと考えていたらしい.その後,精気を運ぶ管と考えられていた神経線維は電気を運ぶためのケーブルであることに気づいたのだ.デカルトの「脳は反射機能をもつ機械である」との説に従えば,外から与えられた信号は感覚として脳に到達し,それに対応した反射的反応が脳から神経線維を伝わって運動を引き起こすと考えることができる.ガルバニーは足に届いている神経線維の束を切断すると反応がなくなってしまうことを確かめ,脳から出ていく信号も脳に行く信号も同じ神経線維を使って行き来するものと考えた.

2)機能局在の発見

どのようにして運動の情報(脳から出ていく)と感覚の情報(脳に入ってくる)を区別するかという疑問については,イギリスの医者,ベル(Charles Bell,1774〜1842)とフランスの医者,マゲンジー(Francois Magendie,1783〜1855)による解剖学によって明らかにされる.坐骨神経は脊髄の腹側から出る神経線維の束(前根とよばれる)と背側から出る束(後根とよばれる)が一緒になったものだと気づいたのだ.さらに,腹側から出ている神経は筋肉の動きを引き起こし,背側の神経は末梢側からの信号の通り道であることを明らかにした.

感覚と運動が別の場所を通ることから,そのもとである脳の中にも区別(脳機能局在)があるに違いないと考える一派が現れる.ところが,脳は均一な組織だと考える一派の勢力は強く,その間で激しい論争があった.

機能局在を学問的にはっきりと示したのはフランスの学者,ブローカ(Paul Broca,1824〜1880)である.言語は理解できるが話すことができなくなった患者を診察し,この患者が亡くなった後に解剖し,外側溝(図1-6参照)の横の部分が損傷を受けていることを明らかにしたのだ.その結果から,言語を話すための中枢はここに局在すると類推したのである.

運動野の発見もこの頃続いてなされた.フリッツ(Gustav Fritsch,1838〜1927)とヒテッヒ(Eduard Hitzig,1838〜1907)はイヌの大脳皮質を電気刺激すると場所によって異なった筋肉が収縮することを発見した.さらに,フェリエ(David Ferrier,1843〜1928)はこれをさらにサルの脳で確かめた.

ヒトの脳においてどの部位にどんな機能が局在しているかは,その後,第一次世界大戦において脳に傷を負った患者が失った機能の研究によりさらに明らかにされた.何のことはない,最初に登場したエジプト時代にパピルス紙に記載された事実の再発見・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・に過ぎないのだ!

19〜20世紀にかけて進歩した顕微鏡による研究
―ゴルジとカハールの論争

1)ゴルジ染色による神経ネットワークの発見

顕微鏡は17世紀にそのプロトタイプが考案されている.その後,レンズの組み合わせや形が工夫され,19世紀に入って実用レベルにまで発達した.顕微鏡の技術は当然,脳の研究にも応用されることになる.しかし,柔らかい脳組織については観察が難しく,なかなか踏み込む手がかりが得られなかった.やがて,細胞を変形させないで組織を固定する方法が考案され,数十μmの厚さの標本をつくることができるようになり,さらに,特定の物質になじむ色素で染色する方法も考案された.これらの方法が脳組織に応用され,脳の細胞レベルでの実体が少しずつわかるようになってきた.最も重要な業績の1つが,イタリアの神経学者,カミロ・ゴルジ(Camillo Golgi)が考案した「ゴルジ染色法」である(Column❶).ゴルジは染色された脳組織の観察から,神経細胞は互いに融合していると主張した(図1-5左).

2)カハールの神経単位説

一方,この染色法を学んだラモン・イ・カハール(Ramon y Cajal)は,神経細胞はほかの細胞と同じように独立の存在であり,互いに接触しあっているのであって,決して融合した網状ではないと主張した(神経単位説:neuron doctrine)(図1-5右).ゴルジとは対立する学説である.当時の観察ではここまでが限界である.

この論争は電子顕微鏡の発明によって決着をみる.神経細胞と神経細胞の間は互いの細胞膜で区切られており,低倍率の光学顕微鏡ではあたかも網の目のようにつながって見えた神経回路網は,電子顕微鏡レベルの解像力で,はじめて独立の神経細胞が接触しあって構成されていたものであることが証明されることになる.

20世紀の脳研究:ついに崩された難攻不落の砦
―電気生理学的解析と分子生物学的解析

1)電気生理学が脳研究をリードした

脳研究を促進した大きな流れの1つは電気生理学である.生物電気発見以来,神経線維の上を流れるという電流の実体と機能を知ろうとする研究が進められた.しかし,当時の電流計だけでは,その実体や機能に迫るには限界があった.

1897年にブラウンが発明した陰極線オシロスコープによって,電位の変化をリアルタイムで観察できるようになり,神経活動の解析にも応用されるようになった.しかし,実際に電気生理学の発展に貢献したのは1946年になって登場したトリガー型オシロスコープである.脳の一部や特定の神経を微弱な電気を流すことで興奮させ,その結果生ずる神経細胞の電気反応を,刺激のタイミングにあわせて活動電位(action potential)として観察できるようになったのだ(第1部3章参照).さまざまな刺激電極や記録電極が工夫された.その過程で,先端の直径が1μm以下のガラス微小電極(micro electrode)註1が発明され,さらに,わずかな電気現象を確実にとらえることができる増幅器が発明された.こうなると,神経線維の束のみではなく,単一ニューロンの活動電位やシナプス電位を観察できるようになる.この技術は急速に広がり,脳研究をリードすることになる.

2)学際的研究が脳の解明を早めた

20世紀の後半になると,医学・生物分野ばかりではなく,物理学分野や化学分野の研究者たちが脳研究に参入し,研究は一気に加速される.電子顕微鏡による微細形態解析技術,パッチクランプ法などの新しい電気生理学技術,生化学的解析技術,免疫染色法,光学計測による細胞内カルシウム濃度計測技術などによる細胞レベルの研究法(細胞神経科学:cellular neuroscience)も脳研究にもち込まれた.

やがて,細胞膜や細胞内の機能分子を遺伝子レベルから解析する分子生物学的手法(分子神経科学:molecular neuroscience)も脳研究に導入され,分子レベルで機能を理解できるようになった.脳に発現する特定遺伝子をノックアウトしたり,発現しなくする技術により,特定の機能にかかわる分子を探求することも可能になった.このような遺伝子操作技術が,行動を手がかりとして脳機能の解明をめざす行動学的研究(行動神経科学:behavioral neuroscience)(Column❷)と結びついたことにより,動物の行動を分子レベルから類推することも可能になった.

一方,脳を理論的に解明しようとする研究も進められ,神経回路活動のシミュレーションや作動原理の解析(システム神経科学:system neuroscience)も脳科学の一分野として確立されている.そして,記憶,学習,理解,思考など高度な脳活動を心理学や情報理論の立場から解析しようとする認知神経科学(cognitive neuroscience)研究も発展した.

この頃からコンピュータの解析能力の精度とスピードが急速に高まり,さまざまな分野で実験精度を高める力になった.特に,脳のX線画像,ポジトロン画像や核磁気共鳴画像の計算トモグラフィー(computed tomography:CT)解析註2が容易にできるようになり,各種の情報による脳の断層画像を得ることができるようになっている.脳機能に作用する薬物も次々に開発されてきた.20世紀後半の脳研究の発展は驚異的なものであった.

21世紀の研究に残されている難問
―まだまだ不明な部分が多く残されている

1)脳科学の発展がもたらす新しい可能性

21世紀に入った現在,脳研究にはますます拍車がかかっている.運動機能や多様な感覚にかかわる神経回路網の解明が進められ,脳の作動原理がより正確に理解できるようになりつつある.それに伴って,統合失調症,うつ病,さらに認知症などの精神神経疾患の発症メカニズムの解明と治療法の開発にも手が届くようになっている.また,脳の特定部位に電極を留置して持続的に刺激することによるパーキンソン病などの脳疾患治療法,人工網膜による視覚の回復の試み,脳波を利用して義手を動かす試みなどのブレインマシンインターフェース(BMI)の研究も日進月歩である.さらに幹細胞を用いた神経細胞や網膜細胞の作製と,その移植による治療も現実味を帯びてきた.

2)脳研究はこれからまだ面白くなる

しかし,解明が進めば進むほどさらに不明な点や困難な部分が明らかになってくる.日常私たちがごく当たり前に行っている記憶の読み出しのしくみについては想像の域を脱していないし,言語にかかわる複雑な脳回路もまだ十分には解明されていない.サバン症の人にみられる特定の能力の並外れた発達がどのようなしくみになっているのかも不明である.

さらに神経科学分野において大きな問題が提起されてきた.グリア細胞の脳機能発現における役割の解明だ.20世紀の脳研究はもっぱらニューロンが織りなす神経回路の研究に焦点が合わされてきた.しかし,ヒトの脳にはニューロンの数の10倍にも及ぶグリア細胞が存在し,20世紀末から最近にかけて,それらが情報の伝達や処理にダイナミックにかかわっていることが明らかにされてきたのだ.脳研究はそろそろ終息に近づくだろうとたかをくくっていた研究者にとってやっかいなことになったというのが実感だろう.しかし,脳の真の理解にはグリア研究が必須であることは間違いない.グリア細胞の機能を組み込んだ形で脳機能を理解するには,これまでとは異なった角度からの研究が必要であり,新しい研究方法,多くの研究者の参加が必須である.実はこれまでに理解されたと考えられている正常脳機能も脳疾患も,グリア細胞の機能を理解することで全く別の解釈ができる可能性もある.脳研究はこれからまだまだ面白くなるのだ.

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