実験医学増刊:マルチオミクス データ駆動時代の疾患研究〜がん、老化、生活習慣病 最新のオミクス統合で挑む標的探索と病態解明
実験医学増刊 Vol.41 No.15

マルチオミクス データ駆動時代の疾患研究

がん、老化、生活習慣病 最新のオミクス統合で挑む標的探索と病態解明

  • 大澤 毅/編
  • 2023年09月05日発行
  • B5判
  • 222ページ
  • ISBN 978-4-7581-0413-5
  • 定価:6,160円(本体5,600円+税)
  • 在庫:あり
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序にかえて

マルチオミクスのすすめ

大澤 毅
(東京大学先端科学技術研究センターニュートリオミクス・腫瘍学分野)

はじめに

私が20年以上前に大学院で分子腫瘍学の研究をスタートした当時,日本の分子生物学,発生学,免疫学,腫瘍学などの医学・生物学研究は,アメリカや英国と肩を並べ世界トップレベルであった.20年以上経った現在,残念ながら日本の医学・生物学研究のレベルは世界トップ10程度である(2018年時点)という統計さえ出ている1).もちろん,免疫学や構造生物学など一部の領域の日本の研究は,現在でも世界トップレベルかもしれない.しかし,多くの日本の医学・生物学研究が世界トップレベルの座を明け渡してしまった今,本邦の医学・生物学研究は大きな転換期を迎えているのではないだろうか.

この本を手にとった読者は,今の医学・生物学研究をどのように捉えているのだろうか? 2000年代初めにヒトゲノムが解読され,生命科学者は2つの選択肢の岐路に立たされた.ジェネティクスとリバースジェネティクス,すなわち,仮説駆動型研究とデータ駆動型研究である.一方は,1遺伝子・1分子を追い続けノックアウトマウスの表現型をトップジャーナルに報告し続けた.もう一方は,情報科学を基に意味不明な暗号解読に難儀しトップジャーナルには程遠かった.一見すると,前者は華々しく,後者はぱっとしない研究者が取り扱うマイナーな研究に感じられただろう.しかし,この20年で日本が世界に大きく遅れをとった理由の1つが,前者のノックアウトマウス至上主義研究に日本全体が偏りすぎていたからだと考えるとどうであろうか.すなわち,欧米や中国は,いち早く巨額の研究費を投じて医学・生物学研究をデータ駆動型に切り替え,データ駆動型研究の単なる1検証法としてノックアウトマウス実験を用いることで,データ駆動型研究を邁進させてきたのである.

そのようななかで近年,ゲノム,エピゲノム,トランスクリプトーム,プロテオーム,メタボロームなど各オミクス解析技術の発展により,ますます網羅的に,かつ高解像度に生命情報が取得できるようになってきた.また同時に,低価格で手軽に各階層のオミクスデータが得られるようになったことで,1つの研究テーマで複数のオミクスデータを組合わせることも特殊なことではなくなってきた.つまり,これからの医学・生物学研究では,多階層のオミクス情報を俯瞰的に見て,いかにして生命現象の全体像を炙り出すか,その戦略が重要になると考えられる.そこで本増刊号では,各オミクス解析の最新情報(第1章)と情報科学的なアプローチ(第2章),そしてマルチオミクス解析を用いた疾患研究の具体例(第3章)について,各分野の第一人者に執筆をお願いした(概念図).本増刊号が,これからデータ駆動型研究を展開していきたいと考える学生や若手研究者の新たな刺激に,また,エスタブリッシュされたシニア研究者にとってはある種のひらめきにつながることを期待している.ひいては本邦の医学・生物学研究の発展にわずかでも寄与できれば幸いである.マルチオミクス研究が医学・生物学研究で主流となりつつある今,これからの研究のあり方について考えるきっかけとしていただきたい.それが本稿タイトルの「すすめ」である.

以下では,本誌の第1章から第3章の内容を簡単に解説する.

1.各オミクス解析の最前線とマルチオミクスへの展開

マルチ(多階層)オミクス研究が医学・生物学研究の主流となりつつあるものの,やはり基本としては,例えばRNA-seqなど単層のオミクス解析技術が重要となる.最近では各オミクス解析がますます網羅的,あるいは高解像度化していくことに加え,これまでは網羅的に捉えることができなかった階層も捉えることができるようになったり,さらには1つの技術で2階層以上の情報を取得できる技術も生まれつつある.そこで第1章では,近年利用可能になってきた,注目のオミクス解析技術をピックアップしてまとめている.

これまでバルクの解析では失われていた希少な細胞群の解析を可能としたシングルセル解析は,近年,時空間情報を保持したまま遺伝子発現情報を取得することが可能となっている.1章-1では,シングルセルオミクス解析から空間シングルセルオミクス解析へとどのように進歩してきたのか,そして今後の展望について述べている.また,最近の網羅的な遺伝子発現解析(トランスクリプトーム)においては,タンパク質合成系を精緻に捉えることも可能となってきた.1章-2では,リボソームプロファイリング法の拡張による多面的な解析について紹介している.

タンパク質の網羅的な解析は,生命現象の解明に必須である.まず,1章-3では,プロテオミクスの技術変遷を振り返りつつ最新の動向や網羅的プロテオームの活用法についてまとめている.さらに,リン酸化プロテオームにおける測定やデータ解析技術に関する現状と課題に加え,in vitro反応を用いたキナーゼ基質の同定とその応用に関する研究について述べている(1章-4).また最近,次世代シークエンサーを用いて,1細胞ごとに発現するタンパク質の糖鎖修飾(グライコーム)とRNAを同時にシークエンシングする技術(scGR-seq)が開発されており,1章-5ではグライコームに関する最新の知見を紹介している.

ゲノム・トランスクリプトーム・プロテオームといった生命のセントラルドグマの表現型として知られる代謝物の解析について,まず,1章-6でメタボローム解析の最新技術の紹介とマルチオミクス解析を用いた代謝研究への応用例を,さらに,1章-7で脂質の構造多様性をより詳細かつ包括的に解読するノンターゲットリピドミクスに焦点をあてたリピドーム解析の最新技術や脂質構造解析手法について紹介している.

このように第1章では,最新の各種オミクス解析技術とマルチオミクス統合への展開についてまとめている.

2.データ解析・統合のインフォマティクス

複数のオミクス解析手法で得られた多階層のオミクスデータは,どのように解析するのがよいか? 第2章では,マルチオミクス研究において最もポイントとなるインフォマティクス,すなわち,データ解析法や統合法についてまとめている.

生命科学データは多様であり,計測技術の進歩により得られるサンプル数およびデータの種類は増え続けている.2章-1では,オミクス統合解析の基礎理論として,複数のデータを同時に扱うための行列・テンソル分解という解析手法について,オミクス解析をはじめとする生命科学分野におけるさまざまな問題に適用された事例を紹介している.また,2章-2では複数のモダリティを横断的に解析するシングルセルマルチモーダル解析の基本原理と手順を,2章-3ではエピゲノムを中心としたマルチオミクス統合解析で,1細胞マルチオミクス解析の新たな実験手法と解析基盤を紹介する.

最近,膨大なオミクスデータが公共のデータベースに蓄積されてきている.2章-4~2章-8では,データベースを用いてマルチオミクス解析に挑む研究を紹介している.マルチオミクス解析におけるシミュレーションから,患者固有モデリングで数式を経由しない数理モデル構築や患者由来の遺伝子発現データを使用した数理モデルの個別化が可能となってきた.2章-4では,マルチオミクス解析のシミュレーションから薬剤標的の予測に至る一連の解析結果を紹介している.2章-5では,マルチオミクス解析による細胞リプログラミング誘導因子の推定の実例として,線維芽細胞をさまざまな組織由来の細胞へとそれぞれ直接変換させる転写因子を高精度で予測するin silico手法について述べている.

2章-6では,公共オミクスデータに基づくネットワークの再構築として,Open Source Interigence(OSINT)に基づく公共オミクスデータの統合と仮説生成や実験の最適化について紹介している2).また,Application Programing Interface(API)を介したデータ公開も進んでおり,他の機関でも提供されたリソースを統合することが可能となってきている3)2章-7では,APIを活用したゲノムデータ利活用プラットフォームについて紹介している.2章-8では,抗がん剤耐性を生み出しているメカニズムを,多様かつ大規模な遺伝子発現データに基づく感受性・耐性に関するシステム異常と仮定し,治療抵抗性の手がかりを探すシステム生物学的技術と大規模データ解析の実例についてまとめている.

このように第2章では,マルチオミクス研究においてポイントとなるさまざまなデータ解析法についてまとめている.

3.各分野におけるマルチオミクス研究

第3章では,各分野の疾患研究におけるマルチオミクス研究の実例をまとめている.

はじめに,糖尿病研究に関して,反応速度に基づくマルチオミクス統合解析の実例をあげて紹介している(3章-1).次に,循環器疾患研究におけるマルチオミクスの実例として,循環器疾患モデルマウスや循環器疾患検体のシングルセルおよびトラジェクトリー解析を用いた研究から炙り出された最新の知見について紹介している(3章-2).また,メタボリックシンドロームなど生活習慣病においては,近年エピジェネティクスの重要性が報告されており4)3章-3では,エピゲノム複合体を中心としたマルチオミクス解析による生活習慣病研究の最新の知見を紹介している.

近年,がん研究分野でも,ゲノム解析をはじめとしたマルチオミクス解析が多細胞間相互作用やオルガネラ間連関に至る解像度で解析されている5).がんのクローン進化においてゲノム変異が重要な役割を果たすが,3章-4では,肝内胆管がんを用いたマルチリージョニングオミクス解析から見えてきたゲノム多様性を凌駕する代謝変容について紹介している.また,がん微小環境においては,これまでのバルクでのゲノム解析,プロテオーム解析,メタボローム解析に加え,免疫細胞のシングルセルマルチオミクス解析が世界中で競争を激化させている.3章-5では,がん微小環境における免疫細胞による多細胞間相互作用を規定するマルチオミクスの実例について述べている.3章-6では,がん細胞-がん/線維芽細胞間-オルガネラ間の相互作用におけるオミクス統合解析について紹介している.

老化研究は近年目覚ましい発展を遂げ,老化細胞除去法などが注目されている6)3章-7では老化細胞におけるマルチオミクス解析の知見とセノリティクスへの展望について紹介している.また,神経変性疾患においても最大のリスク因子は加齢である.3章-8では,神経変性疾患iPS細胞データや人工知能を用いた神経変性疾患研究についてまとめている.

近年,腸内細菌叢と疾患の関連がさかんに研究されている.3章-9ではメタゲノムを中心としたマルチオミクス解析による生理機能・疾患研究の実例を紹介している.また,炎症性腸疾患においては,免疫システムの異常や腸内細菌叢が関与すると考えられている.3章-10では,メタゲノム解析に加えて,メタトランスクリプトームやメタプロテオーム等を統合した炎症性腸疾患のマルチオミクス解析について紹介している.

最後に,COVID-19など感染症研究においてもマルチオミクス研究の発展が目覚ましい.3章-11では,COVID-19の数理モデルから得られた知見をオミクス解析や活用法を通じて紹介している.

このように,マルチオミクス統合解析を用いた研究が,さまざまな疾患研究分野で新たな知見を続々と創出している.

おわりに

最近では各階層のオミクス情報をより手軽に取得することができるようになってきた一方,ただ単に膨大なオミクスデータを手にしても十分に活かしきれないことも多い.近年の医学・生物学研究の一部では,ごく当たり前のように使われはじめているマルチオミクス解析であるが,いかにデータの質を担保し,いかにつなぎ合わせ,いかに生命現象を解読するかが鍵である.このような視点から,本増刊号は,実験医学「トランスオミクスで生命の地図を描け!」(黒田真也,中山敬一/編)を参考に編集した実験医学「マルチオミクスを使って得られた最新知見」(大澤毅/編)の発展版として,各種オミクス解析,データ解析,そしてマルチオミクス解析を用いた疾患研究の具体例についてまとめており,まさに,医学・生物学研究者が意識改革をすべきタイミングに,どのようにアプローチするべきかが各分野の第一人者の視点から議論されている.マルチオミクス解析は,「網羅解析を使った研究は仮説の立てられない総花的な研究だ」と否定的であった研究者にも,思いがけない方向性を与える可能性があると考えている.すなわち,「偶然」の産物とされたセレンディピティは,今後はすべての研究者に「必然」となる可能性がある.さぁ,はじめよう,私達は,まさに医学・生物学研究の大転換期の入り口に立っている.

文献

  • 文部科学省:令和4年版科学技術・イノベーション白書 本文(HTML版)「第1章 我が国の研究力の現状と課題」(https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa202201/1421221_00005.html)
  • Glassman M & Kang MJ:Comput Hum Behav, 28:673-682, doi:10.1016/j.chb.2011.11.014(2012)
  • Buck B & Hollingsworth KJ:Int J High Perform Comput Appl, 14:317-329, doi:10.1177/109434200001400404(2000)
  • Matsumura Y, et al:Nat Metab, 5:370-384, doi:10.1038/s42255-023-00764-4(2023)
  • Aki S, et al:Biochim Biophys Acta Gen Subj, 1867:130330, doi:10.1016/j.bbagen.2023.130330(2023)
  • Aguayo-Mazzucato C, et al:Cell Metab, 30:129-142.e4, doi:10.1016/j.cmet.2019.05.006(2019)

著者プロフィール

大澤 毅:2001年英国ロンドン大学キングスカレッジ卒業.’05年英国ロンドン大学(UCL)大学院腫瘍学博士課程修了(’10年腫瘍学博士取得).’06年より東京大学医科学研究所腫瘍抑制分野研究員.’07年より東京医科歯科大学分子腫瘍医学特任助教.’11年より東京大学先端科学技術研究センターシステム生物医学特任助教.’18年より東京大学先端科学技術研究センターニュートリオミクス・腫瘍学分野特任准教授で独立.’23年より同准教授.多階層にまたがるオミクスデータを収集,統合し,生命科学と情報科学の融合研究から,がん微小環境におけるがん悪性化機構の解明や治療戦略の開発につながる研究に取り組んでいます.学部生,大学院修士課程,博士課程,社会人大学院生など研究室に参加してくれる方,大歓迎です.ぜひご連絡ください.

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