序にかえて
筋疾患の克服を出発点に,健康の維持をめざして
伊藤尚基,深田宗一朗,武田伸一
この10年間の筋科学(Myology)の進歩を広く振り返ってみると,筋ジストロフィーを中心とする遺伝性筋疾患に対して治療法が開発され,臨床の現場まで届いたことが特筆されるだろう.これは,Duchenne型筋ジストロフィー(DMD)の原因遺伝子とその遺伝子産物ジストロフィンの同定,ジストロフィン複合体を中心とする病態の解明研究を出発点とするが,骨格筋固有の幹細胞である筋衛星細胞(筋サテライト細胞)による骨格筋再生機構の解明などの筋生物学の進歩を背景に,治療技術と臨床基盤の進展があって,はじめて成し遂げられたものである.筋ジストロフィーを中心とした筋疾患研究が骨格筋生物学を牽引してきたとも言えるが,これらの基盤的研究を背景に多くの製薬企業が参入し,核酸医薬・遺伝子治療を基軸とした遺伝性筋疾患に対する治療開発研究が活発化していることは事実である.それでは,今後は,どのような進展が考えられるのだろうか.将来の目標としては,先進国を中心とし21世紀の世界が直面している超高齢社会の克服に尽きるだろう.
特に,日本においては,後期高齢者を中心として,加齢に伴う骨格筋量・筋力の低下,いわゆるサルコペニアが克服すべき医学的かつ経済的課題となっている.サルコペニアは国際疾病分類ICD-10に登録され,疾患として認識されるようになったが,これまで健康と疾患のボーダーに位置する取り扱いを受けてきた.栄養療法・運動療法を中心とした介入が行われているが,発症機序についてはいまだ多くの点が不明である.したがって,骨格筋の老化であるサルコペニアを理解し,戦略を打ち立てることは,喫緊の課題である.解決の方向性を見出すためには,老化学のみならず代謝・栄養学をも視野に入れた骨格筋生物学から,改めてスタートを切る必要があるが,その成果は,類縁に位置する悪性腫瘍など慢性疾患に伴う二次性のサルコペニア(カヘキシア)の解決にもつながるだろう.しかも,抗老化という視点からの解析が,疫学のうえでは広く認められている運動の生物学的な側面を,さらに明らかにできる可能性がある.
そこで本増刊号では,骨格筋・サルコペニア研究の最前線でご研究をされている先生方に,臨床研究から基礎研究まで,幅広い視野から分野横断的に,いわば総合知として,サルコペニアの理解を深め,その対策を明らかにし,社会還元を進めるために,ご解説いただいた(図).

最初に,目標となるサルコペニアの実態・臨床をご紹介いただくべく,国立長寿医療研究センターの荒井秀典先生を中心に,「サルコペニア:疫学・臨床」として,サルコペニアの疾患としての理解について,第1章で概説していただいた.発症機序が不明だからこそ,リアルワールドで起きているサルコペニアの実態を考えながら研究することが重要である.
次に,サルコペニアの理解を促すうえでは,骨格筋を取り巻く多種多様な細胞,筋重量制御にかかわる筋肥大・筋萎縮の分子機序の理解が必要不可欠である.なかでも骨格筋幹細胞である筋衛星細胞の再生・肥大時の動態や,骨格筋の間質細胞の最新研究,さらには筋萎縮経路としてのNotchシグナルは,わが国発として筋重量制御機構に新しい概念を生み出している.また,加齢に伴うエピジェネティックな変化や性差に関する研究も進んできた.そこで第2章では大阪大学の深田を中心に,「筋萎縮の背景となる筋生物学の進歩」として,近年の骨格筋生物学の最前線をまとめていただいた.
サルコペニアを対象にした研究を行うためには,遺伝性筋疾患の研究でそうであったように,確立されたモデル動物が必要不可欠である.骨格筋のサルコペニア研究においてはC57BL/6系統を中心とした自然老化マウスが用いられることが多い.しかし,これらのマウスは高価で飼育環境の問題もあるためサルコペニア研究の裾野の広がりの妨げになっている.そこで第3章では筑波大学の高橋智先生を中心に,「多角的アプローチで挑む骨格筋老化のメカニズム」として,読者のなかからサルコペニア研究者が生まれることを期待して,遺伝子改変動物や自然老化マウス,疫学調査をもとにした老化促進マウスモデル,さらにサルコペニアの周辺科学として,ショウジョウバエのがんモデル,ミトコンドリア,ビタミンD,中枢との関係や宇宙実験の最近の成果がサルコペニア発症の理解に及ぼす影響をご紹介いただいた.
さらに骨格筋は運動器としての一面とエネルギー産生臓器としての一面を併せもつユニークな組織である.特にサルコペニアに対しては運動・栄養療法による介入が主であり,したがって,骨格筋が運動器としての機能を発揮する機序,運動・スポーツが他の臓器に与える影響は運動療法の効果を理解するのに必要不可欠である.そこで第4章では順天堂大学の町田修一先生を中心に,スポーツ・運動等のマクロな視点から,ミオシン・最近注目されている膜修復・マイオカイン等のミクロの視点まで,「骨格筋の機能と運動器としてのスポーツ・運動とのかかわり」として取りまとめていただいた.
一方で,骨格筋はエネルギー産生,代謝臓器として生体内の多くの他臓器と連関し,生体恒常性を維持している.特に加齢性疾患は単一遺伝子,単一組織で起こる疾患とは異なり,全身性あるいは個体レベルで起こる老化現象の一部として捉える必要がある.この点からも,骨格筋と他の臓器との連関はサルコペニアを理解するうえで必要不可欠である.そこで第5章では東京科学大学の淺原弘嗣先生を中心に,糖尿病・内分泌代謝とのかかわり,肝臓・脂肪・腱等の他組織・器官との連関,ひいてはがんカヘキシアとの関連について,「臓器連関・他疾患とサルコペニア」としてご紹介いただいた.
最後に,サルコペニアについては,骨格筋生物学研究を中心とした基礎研究を社会実装へつなげることこそが重要である.筋量調節や老化との関連が確立しているミオスタチン,NAD,α-Klothoなどはその最前線に位置付けられており,実用化が期待されている.また安全性の担保された食品成分の実用化や腸内細菌を含めた栄養科学の成果や,これまでサルコペニアとの関係が十分研究されていない骨格筋機能に必要不可欠な糖鎖修飾などの新たな視点も注目される.そこで,第6章では国立精神・神経医療研究センターの青木吉嗣先生を中心に,これらの話題を取り上げ「筋萎縮・筋疾患の克服に向けた社会実装戦略」として,栄養学・創薬の両面から,新しい機能性成分のヒトへの効果の評価法を含めた筋萎縮・筋疾患治療への方向性について,最新の成果を集約していただいた.
加齢性疾患であるサルコペニアの病態は複雑であり,その全貌を理解するためには筋生物学を超えて英知を結集し,社会への還元をめざす必要がある.本増刊号がそのきっかけとなることを祈ってやまない.
<著者プロフィール>
伊藤尚基:東京工業大学生命理工学部卒業.国立精神・神経医療研究センター,東京大学医科学研究所にて筋肥大・筋萎縮の研究を行った後,富士フイルムヘルスケアラボラトリーにて,サプリメントを用いたヒト臨床試験に従事.老化・寿命研究に興味をもち,神戸医療産業都市推進機構今井研究室にてサルコペニアの基礎研究に従事し,今に至る.サルコペニアは今の日本において避けて通れない難問です.医・食の両面からサルコペニアの病態解明や介入法の開発につながる研究をしたいと思っています.
深田宗一朗:大阪大学大学院薬学研究科 教授.専門は筋生物学・幹細胞生物学.早いものでサテライト細胞の研究に従事してから20年.一緒に,新しい発見を世界に発信してくれる博士課程の学生さんを募集中.とりあえずやってみる事の重要さを再認識中.
武田伸一:国立精神・神経医療研究センター,産学連携顧問.神経研究所,名誉所長.1977年,秋田大学医学部医学科卒業.’81年,信州大学大学院博士課程修了(医学博士).’87年,フランス・パリ・パストゥール研究所,博士研究員.’92年,国立精神・神経センター神経研究所,室長.2000年,同部長.’15年,神経研究所長.’18年,同センター理事.’20年,現在に至る.