忙しい人のための代謝学〜ミトコンドリアがわかれば代謝がわかる

忙しい人のための代謝学

ミトコンドリアがわかれば代謝がわかる

  • 田中文彦/著
  • 2020年03月30日発行
  • A5判
  • 157ページ
  • ISBN 978-4-7581-1872-9
  • 定価:3,520円(本体3,200円+税)
  • 在庫:あり
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第1章

植物と動物

 もし生まれ変われたら

人間はもちろん動物ですが、もし次の世にもう一度生まれ変わってもよいと神様から許されたら、あなたは動物と植物、どちらに生まれ変わりたいですか

ずいぶんいろいろな人に聞いてみましたが、9割以上の人が次の世も動物に生まれ変わりたいと答えました。動物はどこへでも動き回って好きなことができ、植物より自由でよいと思うからでしょう。確かにそれも一理あります。動物は動ける(can move)と捉えると、地面に縛りつけられている植物よりもずっと好ましいように見えますが、でも動物は動かなくてはいけない(must moveまたはshould move)と捉えると、大地にずっしり根を張っているだけで生きていける植物よりも厳しい生き方にも見えませんか。

動かなくてもよい植物と、生きるために動き続けなければいけない動物、本書を読む前にちょっとこのように考え方を変えてみてください。

 植物と動物の本質

さて生物学的には、動物は動かなければ生きていけない生きものです。動物が動くのをやめてしまったら餌をとることができずに餓死してしまいます。植物はなぜ動かなくても餓死しないかというと、もう皆さんご承知でしょうが、植物は太陽の光が降り注ぐ場所で雨水を吸い上げることができれば、光合成と炭酸同化作用で生きていけるのです。簡単に言いきってしまうと、植物は光化学反応で水を水素イオンと酸素に分解し、酸素は不要なので大気中へ放出し、水素イオンで発生させたエネルギーを使って大気中の二酸化炭素から炭水化物を合成します。

つまり植物が生きることによって、地球上では次のような反応が進行しています。これは水の分子から酸素を奪いとるので還元反応になります(図1-1)。酸化還元反応については後述します。

動物はこの逆で、植物が蓄えた炭水化物(デンプン)を探し回ってこれを食べ、植物が放出した酸素を吸って体内で炭水化物を酸化させることで生きるためのエネルギーを産生しています。動物はつくり出したエネルギーで筋肉を収縮させて動き回り、食べものを探さなければいけません。動物が生きるための反応は以下のように集約されます(図1-2)。

図1-1
図1-2

 植物と動物の決定的な細胞内小器官

本書では動物が生きるために必要な反応に主な焦点を当てながら人体の仕組みを解説していきますが、その前にこのような植物と動物の生き方の違いが何によるかを考えてみましょう。

細胞内の微小構造(細胞内小器官)として葉緑体(クロロプラスト)をもつのが植物細胞、ミトコンドリアしかもたないのが動物細胞で、葉緑体もミトコンドリアも「細胞の発電所」と言われるほど強力なエネルギー産生装置です。この発電所のしくみの違いによって、生き方が変わってくるのです。

厳密にいうと、植物細胞も動物よりはるかに少ないですがミトコンドリアをもっていて、夜間や落葉季節には動物と同じ呼吸を行なっています。

図1-3(次ページ)に動物細胞の絵を示しますが、細胞膜でおおわれた細胞内に何種類かの細胞内小器官が存在するうち、膜で二重に囲まれた特徴的な形態をしているのがミトコンドリアです。

外側の膜をミトコンドリア外膜、内側の膜をミトコンドリア内膜、内膜で囲まれた内側をミトコンドリアマトリックス、外膜と内膜の間を膜間腔と呼びますが、特に内膜マトリックスはミトコンドリアの機能を理解するうえで非常に重要になりますから、しっかり覚えておきましょう(図1-4)。

図1-4
図1-3

 葉緑体とミトコンドリアの起源

実は植物の葉緑体もミトコンドリアと同じように二重の膜をもった共通の構造をしており、どちらも太古の時代には独立した微生物だったと考えられています。太古の海のなかでまだ植物とも動物ともつかない原始の細胞が、まずミトコンドリアとなる細菌(αプロテオ細菌)を貪食して共生するようになり、すべての生物の出発点となる真核細胞が誕生しました。この真核細胞がさらに葉緑体になる細菌(シアノバクテリア)を貪食して共生することで植物が生まれたと考えられています。

そして植物の進化が始まると、光合成によって原始地球の大気中の酸素濃度が上昇してきて、今度はその酸素を利用してエネルギーを産生するミトコンドリアだけしかもたなくても活動できる動物が飛躍的に進化できる環境が整ったわけです。動物細胞にとっては、植物が放出した酸素と植物が蓄積してくれた炭水化物をいわば収奪して生きるほうが効率がよかったのです。

植物細胞の葉緑体も、動物細胞のミトコンドリアも、原始細胞が微生物を貪食して内部に取り込み、共生していると考えるのが妥当な形態をしていますし、さらにこれらは独自の遺伝子(動物の場合はミトコンドリアDNA)をもっています。通常、細胞の遺伝情報の大部分はご存じのように核内に格納されているのですが、葉緑体やミトコンドリアの機能と深く関連する一部の遺伝子だけは太古の時代の微生物自身が独自に保管していると言えます(図1-5)。

図1-5

 電子伝達系は細胞の発電所

さて植物細胞を支える葉緑体も、動物細胞を支えるミトコンドリアも、どちらも電子の流れをつくり出してエネルギーを産生しています。

ミトコンドリアの場合は内膜、つまり太古の時代には微生物自身の細胞膜であった部分に、水素原子を陽子(プロトン、H)と電子(e)に分けて輸送するタンパク質群が存在し、プロトンを膜間腔に汲み出します。これで膜間腔のプロトン濃度が上昇してマトリックス側へ向かうイオン勾配を形成しますが、ここにもう1つ、内膜にATP合成酵素が存在していて、プロトンがこの酵素タンパク質の中を通って流れる際にエネルギーに転換され、まるで水力発電所のようにタンパク質分子が回転して大量のATPが合成されます(図1-6)。これは人間が発明した水素電池の原理に似ていると考えてもよいでしょう(図1-7)。

水素原子のプロトンと電子を受け渡して輸送するシステムを呼吸鎖、水素イオンの濃度勾配を使ってATP合成酵素が大量のATPを産生するシステムを酸化的リン酸化、これら全体を総称して「電子伝達系」といいますが、植物も動物も同じ水素イオンの流れでエネルギーを産生しているのはおもしろいことです。

ただし動物の場合は、食事として摂取した炭水化物の分子から引き離した水素原子を、肺や鰓などの呼吸器で取り込んだ酸素と最終的に結合させて水にするのに対し、植物の場合は水を光化学反応で分解して得たプロトンが、大気中の二酸化炭素を還元して炭水化物を合成する炭酸同化作用に使っています。

図1-6
図1-7

 酸化反応と還元反応の定義

ではここで次章以降のエネルギー代謝の話に入る前に、酸化と還元について簡単に復習しておきましょう。酸化反応とはある分子を酸素と結合させること、還元反応とはある分子から酸素を奪うこと、これが最も簡単な定義で、例えば物を燃やす燃焼とは熱や光を放出しながら急速に起こる最も激しい酸化反応のことです。

しかし動物の生体内で起こる酸化反応は、必ずしも酸素と結合させるだけとは限りません。つまり、酸化のもう1つの定義を知っていなければ動物の体の中で起こっている化学反応は理解できません。ある分子から水素を奪うことも広い意味での酸化です。ですから動物が電子伝達系に使うための水素を炭水化物の分子から引き離すこと(脱水素反応)も酸化反応の一種なのです。これと逆にある分子に水素を結合させることは還元反応になります(図1-1)。

もう少し根源的に定義すると、電子を奪う反応が酸化反応、電子を供与する反応が還元反応ですが、生物系を勉強しようとする人にとって電子(e)などという物理学的な概念が関わってくると拒絶反応を起こすことも多いので、とりあえず上のように理解しておいてください。

 生体のエネルギー通貨:ATP

もう1つ、生体のエネルギーであるATPについても復習しておきましょう。生物が活動するためのエネルギーはATP(アデノシン3リン酸)という物質のリン酸結合に蓄えられていて、ATPは生体のエネルギー通貨とも呼ばれます。アデノシンとは、アデニンというDNAやRNAにも使われている核酸の1つにリボースという炭素原子を5個持つ糖が結合した物質です。これにリン酸基が3個結合したものがATP(図1-8)で、生物はこの3番目のリン酸基を切り離すことでその化学的なエネルギーを解放して利用しています。リン酸基は非常に高いエネルギーを化学的に蓄えられることがわかっており、これを高エネルギーリン酸結合といいます。

3番目のリン酸基を切り離したATPはADP(アデノシン2リン酸)になりますが、生化学の用語で初学者がよく間違いやすいのがATP分解またはATP合成という用語です。

図1-8

一度理解してしまった人にはどうということはないのですが、「ATP分解」というとATPの分子自体が低分子のレベルにまで分解されてしまうイメージをもつ人も少なくありません。しかし「ATP分解」とはATP分子がリン酸基に蓄えられていたエネルギーを解放してADPになることです。逆に「ATP合成」とは低分子の素材から直接ATPを合成しているのではなく、ADP分子にリン酸基を1個付与してATPにすることなのです(図1-9)。

図1-9
ちょっと寄り道

生体の電気現象

家庭や学校や職場で利用する電気は発電所でつくられた後、電気をよく通す金属製の電線を伝わって送られてきますが、これは電線の中を電子が流れることと考えられます。理科の実験で使用した乾電池やレモン電池も、マイナスの電荷を持った電子(e)が陰極から陽極へ流れることで電流が生じているのです。

しかし生体内の電気現象もそれと同じと誤解していると、神経伝導も心電図も理解できないことになります。動物の体内の電気現象で電子の流れと捉えてよいのはミトコンドリア内膜に存在する電子伝達系だけで、他の電気現象は細胞膜をはさんだ細胞内と細胞外の電位差として説明されます。

ではなぜ細胞膜をはさんで電位差が生じるのでしょうか。どの細胞でも静止して落ち着いている細胞内はマイナスに荷電しています。このとき細胞内に存在するのはカリウムイオン(K)、細胞外に存在するのはナトリウムイオン(Na)、どちらも1価の陽イオンで、ほぼ等量が細胞膜をはさんで対峙しているのに、なぜ細胞内がマイナスに荷電するのでしょうか。これを理解することが電気生理学の基本です。

本書ではごく簡略に説明しますが、細胞膜にはチャネルタンパク質という低分子の物質が通過するゲートの役目を果たすタンパク質が存在しています。ナトリウムイオンにも、カリウムイオンにも、それぞれ特有のチャネルタンパク質がありますが(第5章参照)、静止している細胞ではナトリウムチャネルは閉じていて、細胞外のナトリウムイオンは細胞内へ入れません。しかしカリウムチャネルは開いているのでカリウムイオンは比較的自由に細胞外へ出ていけますから、細胞内は陽イオンが相対的に不足してマイナスに荷電します(図1-10)。これを静止膜電位といい、大体−70 mVくらいです。

ところが神経や筋肉の細胞が興奮するとナトリウムチャネルも開いて、細胞外のナトリウムイオンが一気に細胞内に流入して、細胞内はプラスに荷電します。これを活動電位といい、大体+30 mVくらいです。

つまり興奮している細胞の内部はプラスに荷電し、静止している細胞の内部はマイナスに荷電していると大雑把に理解しておくだけでも、神経伝導や心電図の理解の助けになります。静止膜電位と活動電位の約100 mVの差が神経細胞の長い軸索の中を移動していくのが神経伝導、心臓が収縮と拡張をくり返して鼓動するときに心筋細胞の集合体がプラスとマイナスに交互に荷電する境界面が移動するのを記録するのが心電図です。普通の乾電池の1,500 mVに比べるとはるかに小さい100 mVという電位差で人間の体が動いているとは驚きですね。

水素原子がプロトンと電子に分離して生じる電位差を利用するミトコンドリア内膜の電子伝達系に関しては、物理的知識の少ないわれわれ生物系の人間にはやや理解が難しいですが、静止膜電位と活動電位については電気生理学の基本中の基本ですからよく勉強して理解してください。

図1-10
さらに寄り道

ノーベル賞クラスの研究

イカの巨大神経細胞に金属電極を差し込んで細胞膜の電位差を測定したアラン・ホジキンとアンドリュー・ハクスレー(イギリス)は1963年のノーベル賞を受賞、またエルヴィン・ネーアーとベルト・ザックマン(ドイツ)はガラス電極による細胞膜電位測定法を開発して1991年のノーベル賞を受賞していますが、これに先立つ1934年に世界ではじめてガラス電極を発明してゾウリムシの細胞膜電位を測定したのは日本の鎌田武雄であることも、日本人ならこの際覚えておきましょう。

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