2章 微生物学の歴史
微生物は微生物から
微生物学の黎明期は,生物は生物からという概念が確立される時期と重なっている.まず,フランチェスコ・レディが行った実験によって,生物は無生物から自然に発生するとした自然発生説が,少なくとも小動物については否定されるようになった.レディは,肉を入れた瓶の口をガーゼで覆うと,ウジは発生せず,ガーゼで覆われていない瓶からはウジが発生することを,1668年に見出したのである(図2-3).こうした実験結果から,ハエなどの小動物は自然には発生しないことが明らかとなった.
では,微生物はどうなのだろうか?
ラザロ・スパランツァーニは,1765年に有機物の溶液を入れたガラス製フラスコを加熱滅菌した後,フラスコの口を溶かして密封すると,微生物は発生しないことを見出した.ただし,自然発生説の支持者からは,口を密封しているため生命に必須な酸素が供給されず,その結果として微生物が発生しないのだ,との反発を受けていた.
一連の論争に終止符を打ったのは,ルイ・パスツール(図2-4)であった.パスツールは,空気(≒酸素)が自由に出入りできる白鳥の首フラスコを考案した.白鳥の首フラスコ内の有機物溶液を充分に煮沸した後,フラスコを室温で静置しても,何年にもわたり微生物の繁殖がみられないことを,パスツールは発見した.さらに,そうして保存されていたフラスコを傾けて,埃などがたまっている先端部にフラスコ内の有機物溶液を浸した後,もとに戻すと,短期間で微生物が増殖してくることも見出した(図2-5).白鳥の首フラスコでは,空気の出入りは自由に行われるため,スパランツァーニの実験で指摘されていた「生命に必須な酸素がない」という反論は完全に否定されており,自然発生説はこれによって下火となった.一方で,パスツールにも幸運があったことは事実である.パスツールは前述の有機物溶液として肉汁を用いたが,もしそこに枯草などを混入させていたら,事態は全く異なる様相を呈していたことであろう.枯草などには微生物(枯草菌:Bacillus subtilis)の胞子が付着していることが多いため,充分な煮沸後も胞子は生存して,その後発芽し枯草菌の生育がみられてしまう,という結果になったかもしれないのである.なお,パスツールはこの自然発生説否定につながる白鳥の首フラスコにかかわる研究の他,ワインの腐造※3 を加熱により予防したという成果(パスツリゼーションとして知られている)もあり,微生物生理生化学さらには応用微生物学の父としても知られている.
話をもとに戻す.後年になって,実際,枯草を用いた実験結果が示されることになり,充分な煮沸後も微生物(枯草菌)の生育が観察されたのである.その時の科学者ジョン・ティンダル(図2-6)は,有機物溶液を加熱後冷まし,胞子の発芽に充分な時間放置し,改めて有機物溶液を加熱するという実験を行った.そうすると,微生物は全く増殖してこなくなった.ようやく,自然発生説は完全に否定されたのである.
この一連の実験ならびに実験結果にもとづき,ティンダルは,食品業界にも多大な恩恵を与えた.すなわち,間欠滅菌法※4 が採用されることにより食品の保存性が劇的に改善されたのである.
さて,ここで考えるべき事柄がある.自然発生説が完全に正しいとすると,微生物は,はじめから存在していなければならないこととなる.微生物の起源が宇宙由来であるとする説(パンスぺルミア説)を採用したとしても,では,その宇宙では微生物の起源はどうであったのかという疑問が,永遠に続くことになる.裏を返せば,微生物はどこかで無生物から発生したはずであることがわかる.どのように微生物(生命)が発生したのかについては,昔から多くの議論がなされている.生命の定義をまず掲げた後に,主な仮説を以下に紹介する.
❶ 生命の定義
生命の定義は,次の通りと理解されている.
(1)自己複製能力を有している
(2)外界から物質を取り込み,そうした物質を代謝する一連の反応系を有している
(3)外界と自己とを明確に分ける単位膜系を有している
つまり,生命とは,自己増殖,代謝,自他識別,を行い得るものと定義されている.
❷ 化学進化説
アレクサンドル・オパーリンにより1936年に発表された「地球上における生命の起源」をもとに展開されている学説である.地球上に存在する有機炭素化合物の化学変化により,生体構成成分に類似した化学物質が生じ,そうした物質群によって海洋には有機物のスープができていた.次に,脂質が海洋中でミセルを形成することにより高分子の集合体(コアセルベート)となる.このコアセルベートをもととして最初の生命が誕生した,というものである.1953年,ハロルド・ユーリーとスタンリー・ミラーによって,ユーリー・ミラーの実験が行われ(図2-7),実験で採用された還元的な条件においては,確かに各種有機化合物が生成されることが判明した.ただし,現在では,原始大気は水蒸気,二酸化炭素,窒素などからなる酸化的な組成を有していたことが明らかとなっているため,ユーリー・ミラーの実験は太古の環境を再現したものではないことに注意が必要である.一方で,化学進化の考え方そのものは,現在でも広く受け入れられている.
❸ パンスペルミア説
1906年にスヴァンテ・アレニウスによって提唱された説である.他の天体で発生した微生物の胞子が宇宙空間経由で地球に到達し,地球上の生命の起源となった,というものである.しかしながら,前述の通り,本説は生命の起源の本質を語っているとはいえない.
❹ ワールド仮説
DNAワールド仮説,RNAワールド仮説,プロテインワールド仮説の3種類,さらにはそれらの融合形が知られている学説である.DNA上の遺伝情報がRNA分子経由でプロテイン(タンパク質)に生合成されていくという,現在セントラルドグマとして知られている事柄は,生命の発生が辿ってきた道と関連しているはずである,という考えがおおもとにある.
❺ 表面代謝説
1959年,ジョン・バーナルは,粘土説を提唱している.粘土の界面上でアミノ酸重合反応が起きるという説である.この説は,その後ギュンター・ヴェヒタースホイザーが1988年に発表した「表面代謝説」につながっていく.深海熱水噴出孔近くに存在する黄鉄鉱表面で起こる化学反応がきっかけとなって,最初の微生物(生命)が生まれたのだと論じている.なお,表面代謝説は,自己増殖ならびに自他識別の点から前述の生命の定義からは外れるものであるが,代謝の観点からは卓越した論であることが認められている.
