実験医学別冊 もっとよくわかる!シリーズ:もっとよくわかる!エピジェネティクス〜環境に応じて細胞の個性を生むプログラム
実験医学別冊 もっとよくわかる!シリーズ

もっとよくわかる!エピジェネティクス

環境に応じて細胞の個性を生むプログラム

  • 鵜木元香,佐々木裕之/著
  • 2020年09月14日発行
  • B5判
  • 190ページ
  • ISBN 978-4-7581-2207-8
  • 定価:4,950円(本体4,500円+税)
  • 在庫:あり
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第Ⅰ部 導入編(エピジェネティクス入門)

1章 エピジェネティクスとは?

私たちの身体の細胞はすべて同じゲノムDNAをもつのに,なぜ細胞の種類ごとに違う形をしていて,違う働きができるのだろう? これを可能にしているのが,遺伝子のエピジェネティックな発現制御(調節)機構である.この機構による発現制御は,すべての細胞でおこなわれているので,エピジェネティクスはほぼすべての生命現象に何らかの形で関与していると言っても過言ではない.この章では,まずエピジェネティクスがかかわる身近な生命現象の例とこの学問分野の歴史を大まかに学ぼう.
エピジェネティクス エピゲノム エピゲノミクス ゲノムDNA

エピジェネティクス研究がもたらす未来!?

時は2040年,あなたは病院で健康診断の結果を聞いている.「エピジェネティクス的年齢が実年齢より少し高めですね.前回よりがんのリスクが1%,認知症のリスクが2%,上がっています.葉酸とビタミンB群を多く含んだ食事を心がけてください.もしかしたら病気が潜んでいるかもしれませんから,念のため,精密検査をしてみましょう.」と医師(図1).

こんな未来はSFの世界ではないかもしれない.私たちが食べたもの,曝されたストレス,罹った感染症など,さまざまな経験は,身体の細胞のなかに記録として残ることがわかってきている.その記憶を検出することができれば,前記のような健康診断が可能になるはずだ.その鍵を握るのが「エピジェネティクス」である.

エピジェネティクスがかかわる身近な生命現象

犯罪現場に残された毛根細胞のゲノムDNAからでも,血液細胞のそれからでも,DNA鑑定で犯人を突き止めることができる.これは同じ人なら,違う細胞でもすべて同じゲノムDNA(塩基配列)を有しているからである.では毛根細胞と血液細胞の見た目や機能の違いはどう説明したらいいのだろう? なぜ一卵性双生児は同じゲノムDNAをもつのに,違い(個性)があるのだろう? なぜ同じゲノムDNAをもつミツバチの幼虫が,ローヤルゼリーを与えられたか否かで,女王蜂になったり,働き蜂になったりするのだろう? なぜ三毛猫は雌ばかりなのだろう? なぜアサガオの花の絞り模様は,花ごとに違うのだろう? 実は,これらはすべて,今ではエピジェネティクスによって説明されている(図2).

2章以降で詳しく述べるが,私たち生物のゲノムDNAに蓄えられた膨大な遺伝情報は,そのすべてが1つの細胞内で一度に使われることはなく,細胞ごとに使われる情報と使われない情報とがある.そして,それぞれの情報には異なる目印(化学修飾)がついている.この目印による遺伝子の発現制御(調節)機構をエピジェネティック制御機構(エピジェネティクス)とよぶ.

目印の付き方が,細胞や個体ごとに違うために多様性が生じ,かつそれが長期に渡って維持されるのでアイデンティティー(同一性)が生まれる.私たちの環境や体験もこの目印に影響を与え,それが細胞の記憶として残るので,前述のような健康診断が将来可能になると期待されるのだ.エピジェネティック制御機構は細胞を細胞たらしめ,個体を個体たらしめている重要な機構なので,その破綻はさまざまな病気を引き起こす.本書を通して,このような一連の概念を理解していただければ幸いである.

20世紀後半に成立した新しい学問分野

1)歴史的背景

今では信じられないが,17世紀頃までは,精子の中に子どもがいて,それが子宮の中で大きくなるというプレフォーメーション(前成説)が広く信じられていた(図3).母親に似た子どももたくさんいるのに,その頃の人たちはその事実をどのようにみていたのだろう.18世紀になり,受精卵から発生が進んでいく過程で,しだいに生物のからだが形作られていくというエピジェネシス(後成説:epigenesis,epi=後,genesis=創造)の正しさが広く認識された.また,細胞特有の形や性質は,受精卵から派生した細胞がさまざまな運命決定を経て,分化することで備わっていくこともわかってきた.そして,1942年に英国の発生学者コンラッド・H・ウォディントン(Conrad Hal Waddington)博士は,エピジェネシスの機構を探求する学問として「エピジェネティクス」ということばを造語した.博士はエピジェネティクスの概念を山頂から谷間を転げ落ちる球体になぞらえて表現した(図4).山頂が最も未分化な状態で,細胞は分岐した谷間を転げ落ちるように一方向性に分化して,元に戻れなくなるという概念である.

1953年にはDNAの二重らせん構造がジェームズ・ワトソン(James Watson)博士とフランシス・クリック(Francis Crick)博士によって解かれ,遺伝情報の分子実体が明らかになった.すると,1958年にデービッド・ナニー(David Nanney)博士はエピジェネティクスを,「体細胞分裂と減数分裂において伝達されうる遺伝子機能の多様性のうち,DNA塩基配列の違いによって説明できないものについての研究」と定義した.1975年には,ロビン・ホリデイ(Robin Holliday)博士がDNAのメチル化が遺伝子発現制御に重要なのではないかと提唱し,エピジェネティクスが概念ではなく実体をもつようになった.その後,実験的な証拠が集められるとともに,DNAのメチル化に加え,DNAが巻きついているヒストンタンパク質のさまざまな化学修飾(DNAメチル化とヒストン修飾をまとめてエピジェネティック修飾とよぶ)や非コードRNAによるエピジェネティック制御機構が明らかになった.このように,エピジェネティクスは,20世紀後半に成立し,急速に発展してきた新しい学問分野である.エピジェネティクスはゲノムからどのように情報を引き出すかという「ゲノムの高度活用戦略」を研究する学問とも言え,ジェネティクス(遺伝学)と相補しつつ,めざましい発展を続けている.

エピゲノムを解読する学問―エピゲノミクス

「医学研究を推進するため,誰もが使えるリソースを作りあげよう」という理念のもと,多くの国が参加して,ヒト全ゲノムDNAの塩基配列(31億塩基対)が13年がかりで決定された(ヒトゲノムプロジェクト,2003年に完成).このプロジェクトがはじまった当時はサンガー法という方法で塩基配列を決定(シークエンシング)していたが,その後新しい方法が次々と開発され,加速度的に解析速度があがった.これらの新しい方法は,「次世代シークエンシング」とよばれることが多いが,今の若者にとっては,もはや次世代ではないので,本書では「大規模シークエンシング」とよぶことにする.大規模シークエンシングは,速度・精度ともに向上し,低コスト化も進み,2020年現在,10万円,1日でヒト全ゲノムDNAの塩基配列が解読できるようになっている.

ゲノムDNAは個体を構築するのに必要な「すべての部品が載ったカタログ」であり,それがわかったことは素晴らしい成果である.しかしながら,部品が決まっても,どの部品をいつどこで使ったらよいかという「ゲノムの活用戦略」まではわからなかった.この戦略を理解するために,転写因子とその標的配列の解明とともに,エピゲノム(ゲノムDNAとゲノムDNAが巻きついたヒストンに付与されたエピジェネティック修飾の総体)の解読が人類の次の目標となり,エピゲノムを研究する学問である「エピゲノミクス」が本格的に花開いた.そして2010年に,国際ヒトエピゲノムコンソーシアム(International Human Epigenome Consortium:IHEC)が創設された(第Ⅳ部-8章).ゲノムDNAの塩基配列は,同じ個体ならどの細胞でも同じだったのに対し,エピゲノムは細胞種ごとに異なる(図5).体を構成する細胞はおよそ270種類と言われているので,全エピゲノムを解明するには,この全種類の細胞を精製し,それぞれの細胞におけるさまざまなエピジェネティック修飾を決定する必要がある.さらに,270種類の細胞にはさまざまな分化段階があるし,多様な環境からの影響もある.国際ヒトエピゲノムコンソーシアムはまずできるだけ多くの正常細胞の標準エピゲノムの作成をめざし,2018年にほぼこの当初目標を終了した.2020年現在,疾患細胞を含めたさまざまな状態の細胞のエピゲノム解読が進められている.

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