スマホで読める実験医学
公開中

第4回 注意喚起とやる気[シリーズ対談]嗅覚研究を通してヒトの意識を考える

森 憲作,坂野 仁
10.18958/7195-00023-0000444-00

前回は,学習判断のプロセスとその研究から見えてきた3つの対比軸について議論しました.今回は自己意識の形成と行動出力のためのやる気(motivation:モチベーション)について考えます.また最後に,今後の脳神経科学の進むべき方向についても議論したいと思います.

行動意志の形成とモチベーション

坂野 仁 さて,呼気と吸気に連動した内界情報と外界情報への注意喚起(attention),さらには,内側地図およびその神経経路と外側地図およびその経路の使い分けなど森先生の斬新なアイディア1)は,今後の嗅覚研究のみならず,五感を介した感覚情報処置やそれに関与する神経回路の研究に対し大きな指針になると思います.前回話された呼吸のフェーズに連動した脳機能の使い分けについては,本能回路と学習回路の活性化が呼気と吸気にそれぞれ対応して行われることや,情動や行動の発動が呼気に連動し,探索行動が吸気に連動することなど,興味深いテーマがいろいろとありました.今回これらについて,もう少し掘り下げてお話しいただけませんか.

森 憲作 前回,外界情報や内界情報への注意のスイッチと呼吸相との関連について議論しましたが,外界の匂い情報への注意向けの神経回路メカニズムについて具体例を述べたいと思います.外界の匂いを積極的に嗅ごうとする時,大脳は延髄の呼吸中枢へ吸息タイミングの指令を出します.例えば,マウスやラットは,外界に注意を向けて場所移動をしながら探索行動するときはいつも,クンクンと毎秒6~10サイクル程度の速い呼吸(シータ呼吸)をして外界の匂いをサンプリングします2).この吸息により得られた外界の匂い情報は,嗅球の外側地図の房飾細胞を出発点とする多シナプス経路を介して,前嗅核,梨状皮質,扁桃体皮質核などへと吸息時に伝達されますが,さらに嗅内皮質を介して海馬にも伝達されます.海馬は,嗅内皮質から外界の感覚情報を受けると同時に,前脳基底部(内側中隔核やブローカ対角帯核)からシータ呼吸と同期したタイミングで注意信号(arousal/attentionシータとよばれる)を受けます3)4)

前脳基底部からの注意信号は,具体的な感覚情報を伝達するわけではなく,覚醒レベルや注意状態に従って海馬の神経回路の働きを調整する役割をもっています.そして,この注意信号により,海馬の神経回路は,吸息時に嗅内皮質から入力する「現在自分がいる場所の匂いや情景などの感覚情報」に注意を向け,適切なナビゲーション機能を発揮すると予想されます.さらに,前脳基底部からの注意信号による調整のもとに,海馬の神経回路が外界の感覚情報に応答して高頻度発火活動をすると,海馬の神経回路に可塑的な変化が起こり記憶に残されると予想されています.一方,休息時など外界への注意が低下するときは,ゆっくりした呼吸になり前脳基底部から海馬へのシータ注意信号も起こりません.前脳基底部のニューロンは,海馬だけでなく,嗅球から嗅内皮質にいたる多シナプス経路のすべての中継領野へと軸索を投射します.したがって,嗅球から海馬までのすべての中継部位に前脳基底部からのシータ呼吸と同期した注意信号が入り,外界の匂い情報の伝達やプロセシングが吸息時に促進されるようこの経路の全体を調整していると推測されます.ただ,この考えはまだ仮説にすぎず,今後の研究による検証やより詳細な神経回路メカニズムの解明が待たれます.

坂野先生との議論を通して明らかになったもう1つの重要なアイディアは,学習経路や本能経路の活動のタイミングと呼吸相との関連です.吸息がはじまると,学習経路の起始になる房飾細胞がまず高頻度バースト発火を開始し,外界の匂い情報は房飾細胞を介した多シナプス学習経路を介して,扁桃体や嗅内皮質や海馬へと迅速に伝えられます.このように多シナプス学習経路を介しての外界の嗅覚情報の伝達は吸息相で起こります.これに対して,先天性経路の僧帽細胞も外界からの匂いに応答するのですが,中頻度バースト発火を開始するのはかなり遅れて吸息相が終わる頃です(図1).

図1 呼吸相と房飾細胞および僧帽細胞の発火のタイミング
覚醒休息時のラットの呼吸と嗅球および前梨状皮質の局所電場電位を上図に,また局所電場電位のウェーブレット解析を下図に示す.房飾細胞の発火活動(赤色の横棒)は吸息の途中から開始し呼息のはじめ頃まで続く.これに対し,僧帽細胞の発火活動(青色の横棒)は吸息の終わり頃から開始し呼息の終わり頃まで続く.上図のFや下図のfは房飾細胞の活動による速いガンマ振動を示し,Sやsは僧帽細胞の活動による遅いガンマ振動を示す.(文献13より引用)

吸息相で嗅細胞の軸索からの興奮性信号を受けるにもかかわらず僧帽細胞のバースト発火応答が遅れる理由は,嗅細胞から入力を受ける傍糸球体(PG)細胞から抑制性信号を同時に受けることや,バースト発火には房飾細胞の活動を介しての間接的な興奮性入力が主役を演じることなどが考えられています.言い換えれば,吸息相で房飾細胞群が最初に発火活動し,それに引き続いて呼息相で僧帽細胞群が発火するように,嗅球の神経回路がつくられています(図2).重要なことは,外界の匂いを吸息とともに嗅ぐときに起こる嗅球からの2種類の出力信号は,房飾細胞群(学習経路)の高頻度バースト発火から僧帽細胞群(先天性経路)の中頻度バースト発火へという順序で,吸息から呼息への移行と関連する2つの時間枠で起こることです5)6)

図2 房飾細胞と僧帽細胞の発火の順番を決める糸球体内シナプス経路
外界からの匂い入力により,吸息相で房飾細胞が高頻度発火し,引き続く呼息相で僧帽細胞が中頻度発火する.1型PG細胞(periglomerular cell)は,嗅細胞軸索から興奮性シナプス入力(黄色の〇)を受け,僧帽細胞の樹状突起を抑制する.一方,2.3型PG細胞は,嗅細胞軸索からの入力は受けず,前脳基底部のニューロンから呼吸相と関連した入力を受け房飾細胞の活動を調整する14).糸球体内の黄色の矢印は樹状突起間興奮性シナプス連絡を,黒色の矢印は樹状突起間抑制性シナプス連絡を示す.

坂野 これまで,嗅覚系を用いて,外界および内界からの感覚入力がどのように価値付けされるのかについて議論してきました.それでは,これら忌避(負)または誘引(正)の判断がくだされたあと,情動・行動を発動させるためのやる気を起こす必要があります.この「おみこしを上げる」ための注意喚起(attention)とやる気(motivation:モチベーション)について少しお話し願えませんでしょうか.

 視覚神経系では高次視皮質の階層レベルではじめて感覚情報の好き(正)と嫌い(負)の価値付けが起こりますが,嗅覚系では価値づけのプロセスが,低い階層(嗅球)から起こり,特定の行動出力のモチベーション(やる気/行動意思)や情動の形成へとつながります.すべての外受容感覚において,外界からの感覚入力は正の価値付けがなされると,誘引行動のモチベーションとポジティブな情動およびそれらに伴う覚醒レベルの上昇を誘導します.一方,負の価値付けがなされると,忌避行動のモチベーションとネガティブな情動およびそれらに伴う覚醒レベルの上昇を誘導します.嗅覚神経系では,嗅球や嗅皮質と扁桃体や嗅結節(腹側線条体)によって形成される神経回路が匂い入力の価値付けを担当し,正の価値付けをされた匂い情報が誘因となりモチベーションの生起や情動の発現につながると予想しています.したがって,モチベーション/情動/覚醒レベルといったこれまで心理学的概念として扱われその脳神経科学的実体がよく解らなかった概念の理解が,嗅覚神経系の研究を基にこれから大きく進展すると期待されます.

例えば,ヒトでも動物でも美味しい食べものを探し出して食べようとするモチベーションは大脳で起こりますが,この摂食モチベーションの生起は,以前に経験した美味しい食べものの味や匂いの記憶とその食べものを見つけた場所の記憶の想起が主要な役割を果たします.おいしい食べものを見つけるモチベーションが大脳に形成されると,食べものの場所へのナビゲーションを担当する海馬皮質の神経回路や,手足を使っての目的場所への歩行行動を担当する体性感覚皮質―運動皮質―背側線条体の神経回路や,食べものを認知するための視覚や嗅覚の神経回路が調和的に連動すると予想されます.このように,嗅覚系の研究からモチベーションや情動の生起のための神経回路メカニズムを探るアプローチは,大脳全体に広がる大規模神経経路の調和的連動の研究に大きく貢献すると予想しています.

外界にある目標(external goals)へ到達しようとするモチベーションと並行して,体内の状況の受容を基にした内界からの動因によるモチベーション(internal motivation)生起の神経回路メカニズムの研究も,最近になって大きく進むようになったと思います7).具体例としては,自分の体の空腹状態を視床下部で受容して大脳へ伝達し摂食行動モチベーションを誘起する経路,体の渇き状態を視索前野や視床下部で受容して大脳へ伝達し飲水行動モチベーションを誘起する経路,および,体内の性ホルモン分泌状態を視索前野や視床下部で受容して大脳へ伝達し性行動モチベーションを誘起する経路があげられます.嗅覚神経経路がこれらの内界から発するモチベーション神経経路と密接に関連していることも報告されていますので,嗅覚神経系の知識の進歩は,内界から発するモチベーションの神経回路メカニズムを理解するうえでも大いに役立つと思います.

空腹や渇きといった「本来あるべき状況からの逸脱(physiological stress / homeostatic challenge)」を,内受容感覚を介して検知・評価したときに起こる嗅覚神経系での匂い情報処理の変化の神経回路モデルとして,視床室傍核から嗅皮質・扁桃体・嗅結節への軸索投射が考えられています.視床室傍核は,延髄の孤束核や橋の傍小脳脚核や視床下部から内受容感覚信号を受けるとともに脳幹網様体賦活系から覚醒信号を受け,これらの信号を嗅皮質や扁桃体や嗅結節(腹側線条体)へと伝えるので,体内状態の変化に対応して嗅覚情報処理様式を変化させるのに中心的な役割を果たすと予想しています.

これからの神経科学

坂野 この森先生との対談シリーズでは,われわれが辿ってきた嗅覚研究の道のりを振り返り,脳神経科学の今後について考えてきました.森先生は長年,匂いの情報受容とその知覚・認識(perception)について「匂い地図」という概念を中心に研究を進めて来られました.一方,私は以前携っていた免疫学の経験を基に,一次投射の結果である嗅覚神経地図形成のlogicsに分子生物学的な興味をもってこの研究をはじめました8).ところが森先生と共同研究をはじめた2000年代中頃から,匂い情報の価値評価とそれを基にくだされる情動・行動の出力判断に研究の軸足を移すようになりました.そのきっかけとなったのがΔDマウスの実験9)ですが,森先生もその頃から出力判断に目を向けるようになったと言っておられました.それ以来,森先生とは長きにわたって協同研究をさせていただき,その議論のなかから出てきたのが前回述べた3つの比較軸の概念です1)5)6).特に内側・外側の対比は,先天的な匂いの質感を分ける背側・腹側経路の対比とともに,神経系の発生学的な観点から見てもたいへん興味深いものだと思います.森先生はこの外界と内界からの2つの情報に対する対応について,これからの展望も踏まえどのようにお考えですか.

 坂野先生との自由で楽しいディスカッションのなかから,多くの新しいアイディアが生まれました.その一つは,大脳の嗅覚経路が,「外界の匂い情報を基にして,外界への行動判断を行う外側部オルソネーザル/外受容感覚経路」と「口腔内(内界)の香り情報を基にして,体内(内界)応答を誘導する内側部レトロネーザル/内受容感覚経路」から構成されているというアイディアです1)5).この考えは,嗅覚経路だけでなく前脳全体にも適用できるのではないだろうかと私は推測しています.つまり,大脳新皮質,海馬体,大脳基底核,前脳基底部,視床および視床下部は,「外界の情報を基にして,外界に対する行動の判断を行い運動出力につなぐ外側経路」と「自分の体内(内界)の情報を基にして,自分に対する行動(内界応答)の判断をして自律機能調節や神経内分泌応答につなぐ内側経路」から構成されているだろうとの予測です.

さらに興味深いのは,「前脳はどのような神経回路メカニズムで,外側経路の対外活動と内側経路の対内(体内)活動を統合し,自分の最終的な行動判断や感情生起に結び付けるのだろうか」という問題です.好ましい風味の食べものを食べると大脳でおいしいと感じ摂食を続けますし10),狂暴な野生動物に出会うと大脳で恐ろしいと感じ回避行動を発動します.私は,外界の対象物との出会いにより大脳で起こるさまざまなモチベーション行動(motivated behavior)や感情生起には,前脳で「外側経路の対外活動」と「内側経路の対内活動」がこの順序で起こることが重要だと予想しています.今後,若い研究者によってこれらの予測や問題が詳細に検討されていくことを期待しています.

坂野 森先生も言われたように,これからの嗅覚研究は単に匂いの研究にとどまらず,神経系一般の重要課題にチャレンジするためのモデルシステムになると思うのです.これまで神経科学では,視覚系の研究者が圧倒的に多かったわけですが,これからは嗅覚研究が一層重要な位置を占めるようになると思われます.私は感覚入力を一つの匂い分子として特定でき,それに嗅覚受容体,さらには糸球体へと明確に情報の流れが対応付けられることに感動してこのシステムを選びました.その意味で私は,匂いの研究に魅せられたわけではなく,情報処理プロセスの明快さに惹かれたのです.最近ではさまざまな技術進歩のお陰で,特定の嗅覚受容体を発現する嗅細胞の蛍光染色,それに対応する糸球体やそこから中枢へと情報を送る神経回路を二光子レーザー顕微鏡で観察するなど,夢のような実験が次々と可能になりました.さらに,レビウイルスを用いた神経回路のトレーシングや特定の脳領野を光刺激する光遺伝学(opto-genetics)の実験が脳の全領域にわたりシステマティックに行われています.森先生は最近注目を集めはじめた嗅覚系について,そのシステムのもつ魅力や優位性をどのようにお考えですか.

 視覚や聴覚や体性感覚などの外受容感覚の脳神経科学は,感覚刺激技術の進歩に伴ってこれまでの神経科学研究をリードしてきました.オルソネーザル嗅覚も外受容感覚ですが,感覚刺激技術の困難さから少し遅れて進歩してきました.しかしながら,嗅覚系はレトロネーザル嗅覚も併せもっています.レトロネーザル嗅覚は,味覚や内臓感覚と同様な内受容感覚ですので,嗅覚神経系は外受容感覚としての神経経路と内受容感覚としての神経経路の両方を備えるユニークなシステムです.近年のさまざまな技術的進歩は,味覚やレトロネーザル嗅覚や空腹信号の受容のような内受容感覚の人工的刺激を可能にし,その大脳神経経路の解析を急速に進めると思います.これに伴い,まだ全く研究がなされていない内受容感覚経路と外受容感覚経路の相互作用の解析が今後進展すると思います.外界からの外受容情報と自らの内受容情報の統合に基づく行動判断により,自己意識が形成され,摂食行動や社会行動(social behavior)が引き起こされると予想しています.したがって内受容感覚経路と外受容感覚経路を併せもつ嗅覚神経系は,大脳による自己意識や社会行動などの形成メカニズムを理解するうえで理想的なモデルシステムだと思います.

坂野 おっしゃるように,これまでの感覚受容の研究は,外界環境の変化を検知しそれに対応する出力判断の研究が主流でした.これに対し,最近注目されるようになってきた体内情報や生理学的な状況の把握の研究も,われわれの意識の理解には欠かせないもう一つの柱となっています.私達の身体は恒常性(ホメオスタシス)を保つためにさまざまな情報を発信しています.例えば喉が渇くとかお腹がへったとか,病気で体内に痛みや異常を感じるとか,「そのまま放置すると身に危険が及ぶ」という,「本来あるべき状態からの逸脱」を知らせるアラートシグナルの検知とそれに対する対応が,命の維持のために重要です.このような内界情報は,外界情報によって受動的に発動される意識に加え,能動的にうちから意識を形成します.またこれら内外からの感覚入力の受容と判断から解放されて脳が休息しているときには,記憶情景のエングラムがランダムに活性化して,さまざまなシーンが浮かんでは消えする状況が生まれます.これに何かのきっかけで注意(attention)が向くと,さらにそれに関連したシーンがよみがえり,内なる意識が形成されます.

こうして外界情報や内界情報,さらには記憶情景の自立的な想起によって形づくられる意識(consciousness)ですが,これに基いて生まれる自己意識は他者の存在によって強化されます.こうして自我が生まれ,他者との競合や共存という社会性が生まれるのです.これに関しては,オス同士の縄張り争いや求愛行動について,最近ショウジョウバエやゼブラフィッシュを用いて遺伝子レベルや神経回路レベルでの研究が進んでいます.さて,これら本能行動や生理学的な欲求による“desire(欲望)”は目的が達せられれば抑制がかかり,飲み続けたり,食べ続けたり,死ぬまで闘い続けたりすることはありません.ところが,学習判断による報酬系で行動することの多いヒトの場合,この欲望にこれでよいという満足のブレーキがかからず,ひたすらゴールを追い続けます.これはヒトの金銭欲や名誉欲,征服欲などにみられる「もっともっと」の欲望で,この「足るを知る」事を知らない,逃げ水のようにゴールが逃げるヒトの欲望の研究が進めば人類は賢く自由になれると思うのですが如何でしょうか.

何が分かれば解かったことになるのか

坂野 それではそろそろまとめに入りたいと思います.今回の対談は,コロナの蔓延下で何かと制約の多いなか,10数回にわたり東京と京都でお会いして,毎回1時間半程度意見を交わして参りました(写真).

私は普段寡黙な森先生が,いつも目を輝かせて楽しそうにお話しになる姿に深い感銘を覚えました.また,ご自分のアイディアを語るときの森先生の表情に思わず見とれてしまうこともしばしばでした.ご本人には失礼ですが,「森先生はこんなにいい顔をして居られたのか」と思うくらい,実に輝いて居られるのです.もちろん,森先生ご自身の資質ということもありますが,私は森先生の先日亡くなられた留学先での師,イェール大学のGordon Shepherd教授の薫陶が大きいのだと思います.私も何度かお会いしましたが,嗅覚研究の本質を教えられるのみならず,人間的にも穏やかで研究に対してもたいへん真摯な方でした.折角の機会ですので,森先生がShepherd教授から学ばれたもの,そして森先生が次の世代の研究者に受け継いでいって欲しいことなどありましたら,お話し願えませんか.

 私が1978年にGordon Shepherd先生の研究室に留学したときは,嗅球の神経回路のことしか視野になかったのですが,Gordonは脳神経科学のすべての領野の幅広い知識と研究者仲間をもっておられました.そして「脳のさまざまな領域の神経回路で共通するような構造原理や機能原理とは何だろうか」と考えておられました.私が実験プランや実験結果の相談に行くと,いつも快く対応してくれて広い視野からの議論とアドバイスをしてくれました.このような親切な指導は,私が日本に戻った後も長く続き,私だけでなく,私の研究室のメンバーの多くもGordonからアドバイスを受け,いくら感謝しても足りないくらいです.つい最近も,オルソネーザル外受容経路とレトロネーザル内受容経路11)のアイディアについてGordonにメールで連絡したのですが,彼は「このアイディアは,Kensakuが嗅覚系に関して報告したいくつかのアイディアのなかで1番おもしろい」と高く評価してくれ「ぜひネットを介してmeetingをしてこのアイディアの今後の展望を議論しよう」と言っていただいたのですが,急にお亡くなりになり非常に悲しく残念に思います12)

坂野 では最後に嗅覚研究,ひいては神経科学の今後についてですが,何をゴールと定めるのか,また,何が分かったら解ったことにするのか考える必要があると思います.私が外国に出て間もない頃,UCSD近くのSalk InstituteでFrancis Crick博士によるヒトの意識についての講演を聴く機会が有りました.その頃はいまだ神経科学のゴールが混沌としていた時代でしたが,今の時代に彼のような天才が生きていれば,より明確な方向性が示せたのに,と残念に思います.すなわち,あまたいる研究者が次々とデータを出し論文を書くなかで,30年後を見通しこれから先の目ざすべき方向を示せる人が,神経科学には必要だと思うのです.さもないと現場は実験技術の進歩を反映して情報の洪水となりますし,リタイアした研究者達は哲学論議を重ねるだけになってしまいます.そこで森先生に脳神経科学の今後,具体的には何が分かれば解ったことにするのか,そのゴールについてお聞きしたいと思います.

 外界や他個体と自分とを区別して認識する自己意識に私は興味をもっており,「外受容感覚情報と内受容感覚情報と記憶情報を統合して行動判断を行う大脳の神経回路ネットワークが進化した結果,動物やヒトの自己意識が形成されるようになった」のだろうと想像しています.脳神経科学者の目標の1つは動物やヒトの行動や感情を生起させる神経回路メカニズムを解明することだとよく言われます.私は,脳神経科学者が自己意識の神経回路メカニズムを近い将来に理解しはじめるだろうと期待をしています.

人(自分)が人(相手)と出会うと,面識のある人かどうかを一瞬で判断し,相手の様子や周りの状況を観察し,以前にその人に会ったときの経験を記憶からよび起こし,自分の気分や体内状態を考慮し,さらには自分が行動をとる結果起こるであろう相手の感情や行動を予測しながら,その人に対する適切な行動判断を行います.人類は,このような高度で複雑で多種類にわたる行動判断を短時間で遂行できるように大脳の神経回路ネットワークを進化させた結果,現代人がおこなう日常生活や社会生活が可能になったと,私は推測しています.さらに,ある人の脳の自己意識ネットワークと別の人の脳の自己意識ネットワークが,行動を介して相互作用することにより,人々の複雑な社会行動やコミュニケーションが生まれるとも予想しています.ですから,脳神経科学の主要目標は,社会行動を担う神経回路ネットワークの全容を解明することだと思います.

マウスの脳神経系は,ヒトの脳神経系と基本構造が似ていますがずっと単純ですし,マウスの行動レパートリーも,ヒトの行動レパートリーと基本的に似ていますがより単純です.例えば,マウスが示す典型的な社会行動には,近づいて互いに匂いを嗅ぎあう社会的行動,相手マウスに対する攻撃行動,異性マウスに対する性行動,仔マウスに対する母性行動などがありますが,ヒトの社会行動とよく似ています.マウスにおいてもこれらの社会行動をとるときには,①相手の状態や周りの情報を外受容経路を介して得て,②以前に出会ったときの記憶情報を海馬や大脳皮質から得て,③自分の内部状態や情動状態の情報を内受容経路を介して得て,④次のシーン展開を予測し,⑤これらの情報を統合して社会行動の行動判断を行っています.最近の技術進歩のおかげで,①から⑤のそれぞれを担当する神経回路が次々と明らかになりつつあり,近い将来には,マウスの社会行動のいくつかにおいてその神経回路メカニズムの概要が解明されるのではないかと予想されます.そこで,マウスの大脳の嗅覚神経系を研究することによりマウスの社会行動を担当する大脳神経回路ネットワークの枠組みを理解することを,私自身の近未来のゴールにしたいと考えています.マウスで得られた知識は,ヒトの日常生活行動や社会行動の脳神経メカニズムの理解に大きく貢献すると思います.

坂野 私はヒトもマウスも基本的な思考・行動様式は同じだと考えています.以前,科学研究費の面接審査会で,「マウスの実験でヒトのこころが解るのか」と聞かれたことがありましたが,私は「解る」と思っています.その解る部分が自然科学であり,解らない部分は形而上学だと思うのです.私は今回の議論で,①感覚入力が本能回路と学習回路を経て扁桃体の価値付け領野を刺激し,②それによってさまざまな脳内物質(neuro-modulator)が発現誘導され,③それらが,中枢にあるいくつかの行動出力のための発動拠点を活性化し,同時に④neuro-modulatorの生理学的な作用によって情動が形成される,という大枠が見えてきたと思うのです.したがって,今述べた4つのポイント,①~④の実態とそのつながりが明らかになれば,自然科学的には,われわれの情動・行動,ひいては意識形成のメカニズムが解ったことになるのではないかと思うのです.このような「科学」は,昨今云われる役に立つ「科学技術」とは異なるものかもしれませんが,そこから得られる知識は人類をより賢くし,人のこころを自由にし,自らを理解することに資すると思うのです.世の中がこれからも,このような「科学」を理解し,それに価値を置く余裕をもち続けることを願って,今回の対談を終わりたいと思います.

最後までお付き合いくださった読者の方々に感謝したいと思います.どうもありがとうございました.

謝辞

本研究は科研費(21H05684,22H00433)および金原一郎記念財団によりサポートされました.記して感謝致します.

文献

1) Mori K & Sakano H:Front Behav Neurosci, 16:943647, doi:10.3389/fnbeh.2022.943647(2022)

2) Mori K & Manabe H:The Olfactory System, Springer, Tokyo, 1-18(2014)

3) O’Keefe J:The Hippocampus Book, Oxford University Press, New York, 475-548(2007)

4) Tsanov M, et al:Eur J Neurosci, 39:957-974, doi:10.1111/ejn.12449(2014)

5) Mori K & Sakano H:Front Neural Circuits, 16:861800, doi:10.3389/fncir.2022.861800(2022)

6) Mori K & Sakano H:Annu Rev Physiol, 83:231-256, doi:10.1146/annurev-physiol-031820-092824(2021)

7) 「本能行動のサイエンス」(岡 雄輝/企画):実験医学,40:3048-3097(2022)

8) 坂野 仁:感染・炎症・免疫,52:104-112(2022)

9) Kobayakawa K, et al:Nature, 450:503-508, doi:10.1038/nature06281(2007)

10) 飯泉佳奈,森 憲作:日本味と匂い学会誌,28:61-66(2021)

11) Shepherd, G.M.: Neurogastronomy, Columbia Univ. Press, New York(2012)

12) Greer CA & Firestein SJ:Nat Neurosci, 25:1119, doi:10.1038/s41593-022-01141-2(2022)

13) Mori K, et al:Front Psychol, 4:743, doi:10.3389/fpsyg.2013.00743(2013)

14) De Saint Jan D:eLife, 11:doi:10.7554/eLife.71965(2022)

森 憲作(Kensaku Mori):1974年,大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了(’78年工学博士).群馬大学医学部助手・講師,イエール大学医学部Research Associate,を経て’87年,大阪バイオサイエンス研究所副部長.’95年,理化学研究所ニューロン機能研究グループグループディレクター.2000年から東京大学大学院医学系研究科機能生物学専攻教授.’15年,東京大学名誉教授.’15年より理化学研究所脳神経科学センター客員主管研究員(現在に至る).

坂野 仁(Hitoshi Sakano):1976年,京都大学大学院理学研究科生物物理学専攻博士課程修了(理学博士),カリフォルニア大学サンディエゴ校化学部博士研究員.’78年,スイスバーゼル免疫学研究所研究員,’81年,カリフォルニア大学バークレー校微生物・免疫学部Assistant Professor,Associate Professorを経て’92年,同分子細胞生物学部免疫学部門Full Professor(’96年まで).’94年から東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻教授,2012年,東京大学名誉教授.’13年より福井大学医学部高次脳機能部門特命教授(現在に至る).