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第3回 記憶に基づく学習判断シリーズ対談〜嗅覚研究を通してヒトの意識を考える

森 憲作,坂野 仁
10.18958/7189-00023-0000386-00

種や個体の生き残りのために必須な基礎的匂いに対しての質感は,自然淘汰の結果として先天的に決められています.この本能判断とは別に,情報の質感は匂いを検索タグとして想起される情景(シーン)記憶によっても左右されます.今回は,房飾細胞を介して中枢に運ばれる匂い地図の情報が,どのように関連する記憶を想起させ,それにつながる価値付けネットワークを活性化するのか,について考察します.

学習判断のための匂い情報の価値付け

坂野 仁 これまでの研究によって,嗅覚系における本能回路を介した先天的な意志決定については大体の道筋がついてきました1).すなわち嗅細胞の一次投射の段階で背腹軸に沿って好きか嫌いかの質感が分別され,次に僧帽細胞の異なるサブセットによって直接扁桃体の価値付け領野へと配信されて忌避と誘引の出力判断がくだされるわけです2).またこの先天的な出力判断のためには,匂い地図のパターンが認識されるのではなく,特定の機能ドメイン内の単一糸球体の刺激だけで本能的な出力行動が誘導できることも示されました3)

さて,次に問題になるのは匂い情報の学習判断です.この記憶に基づく判断では,まず入力してきた匂いが何であるかを厳密に同定する必要が有ります.そのためには活性化された糸球体の組合わせパターンとして嗅球上4)に展開された「匂い地図」を,脳の中枢が正確に識別し匂いの種類を特定しなければなりません.次にこの匂いの入力情報を検索タグとして,以前連関していたシーン記憶を想起させ,そのときの情景が好ましいものであったか忌避すべきものであったかによって,匂いの質感を判断するのが学習判断だと考えられます.これについては森先生と書いた最近の総説1)で詳しく議論しましたが(図1),ここは専門家である森先生に学習回路についてお話していただきましょう.

図1 忌避的な匂い4MTに対し刷り込み記憶をもつマウスの出力判断
忌避的な匂い4MTをマウスに嗅がせると先天的な忌避回路が活性化され本能的なストレス反応が誘導される.ところが4MTに刷り込み記憶をもつマウスでは,4MTを嗅ぐことによって新生仔期の幸せな記憶が想起され,幸せホルモンの発現が誘導されストレスが低下する.現在,4MTに対する2つの相反する判断,すなわち本能的な忌避と刷り込み記憶による誘引がどのように裁定されるのかは不明であるが,扁桃体の正および負の価値付け領野に何らかの相互抑制があると考えられている.(文献1より引用)

森 憲作 外界の匂い情報を基に,本能的行動判断を行うときに中心的な役割を果たすのが,僧帽細胞の扁桃体へのダイレクト投射であることがわかってきました.したがって次の課題は,記憶のエングラムを含む学習経路5)について,それがどこにあるのかを推測することです.嗅球も大脳皮質の一部で嗅皮質と同様に3層構造をしていますが,大脳新皮質はどの領域も共通した6層構造をしており,各領野からの出力細胞は浅層(2/3層)の錐体細胞と深層(5/6層)の錐体細胞に分類されます.嗅球では,房飾細胞が浅層錐体細胞に,僧帽細胞が深層錐体細胞に相当します(図26).僧帽細胞や深層錐体細胞は,発生の初期につくられて軸索投射をし,胎仔の時期に基本的な神経連絡をつくって生後まもなくであっても機能しうる,先天的神経経路を形成すると考えられます.一方,房飾細胞や浅層錐体細胞は,僧帽細胞や深層錐体細胞よりもあとに産生され軸索投射も遅れて起こりますので,既存の先天的神経回路に付け加えられる形で,学習判断のための経路がつくられると考えられます.

図2 嗅球の投射ニューロンの機能的分類
嗅球の投射ニューロンは,外層房飾細胞(eTC),中間層房飾細胞(mTC),内層房飾細胞(iTC),変位僧帽細胞(dMC),および僧帽細胞(MC)に分類され,それぞれ特有な軸索投射パターンを示す.房飾細胞からの多重シナプス経路は学習判断経路として働き,僧帽細胞からの直接経路は先天的行動判断経路として働く.(文献3より引用)

浅層錐体細胞は,各感覚皮質領野から一段上位の感覚皮質領野へと軸索投射して皮質―皮質間連絡を形成します.浅層錐体細胞を介する皮質―皮質間経路は階層を登るようにつながり,感覚情報が各領野で次々とプロセスされながら上位皮質へと伝えられていきます.嗅球の外側地図(lateral map)の房飾細胞から伝達される匂い情報も,外側前嗅核から前梨状皮質腹側部,続いて前梨状皮質背側部へと伝えられ,多重シナプス経路で扁桃体に到達します(図37).この房飾細胞から出発する多重シナプス経路の活動を記録したところ,呼吸の吸息相で起こることがわかりました6)8)

図3 嗅球外側地図の房飾細胞を起点とする嗅覚の皮質―皮質間求心経路
外層房飾細胞の軸索は,前嗅核外節(黄色)の第Ⅰ層へと投射し,ここへ尖頭樹状突起を伸ばす外側前嗅核(吻側部)の錐体細胞(Py)にシナプス連絡する.中間層房飾細胞は外側前嗅核のⅠ層へ投射する.外側前嗅核の錐体細胞(Py)は,外側前嗅核や前梨状皮質のⅠ層へと投射する.前梨状皮質のセミルーナー細胞(SL)や浅層錐体細胞(SP)は,軸索を前梨状皮質,後梨状皮質,扁桃体皮質核や嗅結節の表層へと投射する.このような,房飾細胞や嗅皮質各部の浅層細胞による多シナプス性の嗅覚求心経路を介して,外界の匂い情報が上位皮質へと次々に伝達される.

一方,深層錐体細胞は,その軸索を皮質下領域(扁桃体,大脳基底核,脳幹を含む)へと投射し,各領野でプロセスされた情報を直接皮質下出力へと結びつけます.嗅球の僧帽細胞も軸索を扁桃体や嗅結節に直接投射します.先ほどお話ししましたように,匂いに対する僧帽細胞の発火応答はかなり遅れて,吸息を終えようとする頃に発火頻度が上昇しはじめます.このことから,外界からの匂い信号は,吸息相で応答する房飾細胞から出発していくつかの皮質―皮質間連絡を介する学習回路を経て扁桃体へ入力する情報と,その後の吸息相の終わりに連続発火をはじめる僧帽細胞が直接扁桃体へと軸索を投射する本能経路からの情報が,吸息と呼息にそれぞれ関連して伝えられることがわかりました.

坂野 このように,入力してくる匂い情報は,扁桃体に直に出力判断を仰ぐ本能判断のための直接回路と,情景(シーン)の記憶を中心に入力情報と価値付け回路を結ぶ多重シナプス回路の2つの神経回路によって,呼吸フェーズに相関して出力判断がくだされることが解ってきました6).私は学習判断のための記憶のエングラムを,二つの糸口をもつマユ玉に例え,入口にあたる糸口から匂い情報が入力してなかに眠る記憶をよび起こし,一方,マユ玉の出口にある糸口に扁桃体へとつながる価値付け回路が接続して意志決定,すなわち記憶に基づく意志決定(decision making)がなされると想像しています.私はこのマユ玉モデル1)において,入口と出口,2つの糸口につながる錐体細胞の研究が重要で,個人的には,マユ玉を解きほぐす記憶自体の研究には立ち入らないでおこうと考えています.森先生はこのエングラムを中心とした記憶学習の研究についてどのようにお考えですか.

 私も記憶の想起に基づく行動判断のための神経回路とそのメカニズムにたいへん興味があります.摂食行動のような典型的な行動シーンの展開が起こる行動に集中して,このような研究に迫れないかと考えているところです.

坂野 森先生との議論と共同研究の結果,匂い情報は直接(本能)回路と多重シナプス(学習)回路を介してくだされる2つの判断の統合によって最終的な出力へとつながることが解ってきました(図11).ここで先天的に決まる本能判断は,自然淘汰の結果として遺伝的にプログラムされた神経回路によって決定されるもので,生物学的には常に正しい判断だと言うことができます.しかし,本来忌避すべき匂いであっても好ましいものとして認識されることもありますし,発酵食品のように一般的には鼻を塞ぎたくなるような匂いであっても,食べてみて美味しかったという記憶が有れば,それを好ましいものと認識する場合もあります.このように経験に基づく学習判断は,環境に順応(adapt)して対応の自由度を上げるために発達した後天的なシステムですが,応々にして本能判断と一致しないケースが出て来ます9).この場合2つの対立した判断をどう統合するのか,そのバランシングのメカニズムが何であるのかは,これからの研究課題として興味のあるところです.これを説明するモデルとして,正と負,2つの扁桃体領野の相互抑制,または価値付け細胞の活性化レベルの相互相殺が考えられますが,森先生はこの裁定についてどのようにお考えですか.

 「遺伝子によって先天的に形成される経路」と「経験学習によって獲得される経路」の相互作用に関しては,私もすこし異なった視点からたいへん興味をもっております.生後の発達期に,房飾細胞による学習経路が匂いの組合わせ入力と行動判断の連合学習により,バイパスとして先天的経路に並行してつくられると予想していますが,この学習経路の形成に先天的経路がどのように関与するのかを知りたいと思っています.先天的経路には,食べ物の味や香りに対する好き嫌いの基本的な特性が書き込まれていると予想しています.生後,新しい食べ物の学習によって獲得される匂いや味のさまざまな組合わせ,すなわち風味に対する好き嫌いの形成に,この先天的経路の基本特性がどのように関与するのかという問いです.例えば,自然環境下の離乳期に親が最初に与える食べ物には,先天的回路によって決定される好ましい味覚や嗅覚情報だけでなく忌避的な物も含まれると予想されますが,これらを総合して食べ物としてポジティブな価値づけをして記憶する学習回路が先天的回路のうえにどのように付け加えられていくのか,研究できないかと考えています.

坂野 なるほど.私はこれまでinnate(先天的)とadaptive(順応的)な2つの判断が最終的にどう裁定されるのかだけを考えて来ましたが,森先生の言われるように,学習判断の過程で,情報の先天的な価値付け内容が,どう上書きされるのかも考える必要が有りますね.また前回,連載第2回で述べましたように,われわれが感じる匂いの先天的な質感が脳内でどのように形成されるのか,さらにそれが学習判断の際にどの段階で勘案されるのかについても知りたいところです.

新しく見えてきた3つの比較軸

 これまで坂野先生といろいろな議論をさせていただいたなかで,私が最も感銘したアイディアは,「大脳皮質は個体と種の生存のため,最も適する形に感覚入力の行動判断への変換を進化させてきた」というものです.嗅球は胎仔期に大脳皮質が前方に伸び出してつくられます.そこに嗅細胞の軸索が直接投射して来るので,脊椎動物の進化の過程で大脳皮質は嗅覚情報を行動反応に変換するためにつくられた,とする考え方11)があります.もしそうならば,嗅球や嗅皮質で見出されてきた知識は,大脳皮質全体の神経回路の働きを理解するうえで非常によいモデルになると考えられます.

坂野先生と共同で書いた最近の総説1)4)7)を読み返してみますと,嗅球で検出される匂い情報を嗅皮質で行動出力に結び付ける際に,3つの比較軸とそれを担当する神経経路が明らかになってきたことがわかります.第一の比較軸は,「嫌悪的な匂い情報を忌避的な行動に変換する背側経路」と「好ましい匂い情報を誘引的な行動に変換する腹側経路」の対比です(図4).第二は,匂い情報を「ダイレクトに行動判断へと結び付ける僧帽細胞を介した先天性経路」と「記憶情報と照合した後に行動判断に結び付ける房飾細胞を介した学習経路」の比較軸です(図23).第三は,「外界からの匂い情報を外界への運動行動に変換する外側経路」と「自分の体内の匂い情報を自律機能調節や神経内分泌反応に変換する内側経路」の比較軸です(図4).嗅覚神経系で明らかになってきたこれら3つの比較軸や神経経路についての新しい知識が,これからの脳神経科学全体に及ぼすインパクトについて,すこし議論したいと思うのですがいかがでしょうか.

図4 「外側の外受容嗅覚経路ー内側の内受容嗅覚経路」の比較軸と「背側の負の価値付け経路―腹側の正の価値付け経路」の比較軸
マウスの嗅上皮,嗅球,および嗅皮質の展開図(腹側から見た図)のうえに,外側の外受容嗅覚経路を青矢印で,内側の内受容嗅覚経路をオレンジ・マゼンタ色の矢印で示す.嗅上皮から嗅球を経由して前嗅核の吻側部までの経路は,外側経路でも内側経路でも,背側(dorsal:D)経路と腹側(ventral:V)経路にわかれている.各部位の両矢印は背腹(D-V)軸を示す.

坂野 今,森先生のあげられた3つの比較軸は,われわれの議論およびこれまでの共同研究のなかから浮かび上がってきた重要な概念で,嗅覚研究のみならず他の感覚系にも当てはまるであろう基本的なものだと思います.また,これらの概念を発生や進化のプロセスに照らして考える森先生の姿勢にも共感を覚えます.私は大学院時代に分子遺伝学のトレーニングを受けたので,進化の過程で受ける淘汰のための選択圧力(selective force)や,選択の基礎となる多様性,すなわち遺伝子に生じる変異が常に頭に有ります.これらのことを念頭に免疫系や神経系など高等動物の高次系を見ると,一見複雑そうなシステムが,じつは新たな遺伝子機能の獲得を一つひとつのステップとして,時間をかけて組み上げられてきた単純なものに見えるのです.

まず,第一の比較軸である忌避と誘引の情報分別と,それらに行動出力のための価値付けを行うメカニズムについて議論したいと思います.先にも述べましたように,本能的な情動・行動の出力判断については,嗅細胞による嗅上皮から嗅球への一次投射の際に,①背腹軸に沿った忌避(背側)と誘引(腹側)の分別が行われること,また,②僧帽細胞による扁桃体への二次投射によって,背側の情報は負,腹側の情報は正の価値付け領野に配信されること,さらに③この仕分けと価値付けのための投射には,反発性の軸索誘導シグナル,Nrp2/Sema3Fが共通して用いられていることがわかりました2)10)

 「嗅球の匂い地図の背側(D:dorsal)ドメインへの外界からの入力は,先天的経路を介して忌避行動を引き起こす」のに対し,「腹側(V:ventral)ドメインへの匂い入力は先天的経路を介して誘引行動を引き起こす」という新知識について,私も神経回路の視点から考えてみたいと思います.背側ドメイン vs. 腹側ドメインと,忌避行動 vs. 誘引行動の対応関係は,僧帽細胞を介した本能回路のみならず,房飾細胞を介した学習回路でも基本的には同じで,「背側ドメインの糸球体への入力の大部分は,嗅皮質で嫌いな匂いとして負の価値付け(negative-valencing)がなされて忌避行動を誘導する」のに対し,「腹側ドメインの糸球体への入力の大部分は,好きな匂いとして正の価値付け(positive-valencing)がなされて誘引行動を誘導する」と考えられます.扁桃体内の神経回路によって価値付けされたシグナルは,他の感覚系からのシグナルと統合された後,情動・行動の出力へと変換されると予想していますが,多感覚情報の価値付け統合のメカニズムについては今後の研究を待たねばなりません.

価値付けされた匂いシグナルが送られる皮質下標的として,もう一つ嗅結節があります.嗅結節は,GABA作動性中型有棘細胞を主要投射細胞とする線条体の一部であり,側坐核とともに腹側線条体を形成しています.嗅球から嗅結節への投射も,僧帽細胞による直接投射経路と房飾細胞による多シナプス学習経路があると予想していますが,まだ詳しくは調べられていません.嗅結節内では,正の価値付けを担当する中型有棘細胞と負の価値付けを担当する中型有棘細胞が混在しています.嗅結節は扁桃体からも豊富な入力をうけ,食物探索行動でも摂食行動においても,匂い入力の価値付けと食物獲得・摂食モティベーションの形成や匂い-行動の連合学習に重要な役割をもつと考えられ,食事と関連した研究が今後進むと思われます.

坂野 それでは次に,第2の比較軸である本能回路と学習回路の対比について,森先生のお考えをお聞かせください.

 匂い情報をダイレクトに行動判断に結び付ける先天的経路と,匂いの入力情報を記憶された関連情景に照合して行動判断を行う学習経路が並列的に存在するというアイディア12)は,これまで嗅球や嗅皮質の神経回路を解剖学的および生理学的に解析してきた研究者に大きなインパクトと新しい視点を与えました.

個々の僧帽細胞や房飾細胞は主樹状突起を1つの糸球体へと伸ばし,特定の糸球体内で同じ嗅覚受容体を発現する嗅細胞群から興奮性のシナプス入力を受けます(図2).したがって,「1僧帽細胞・1糸球体ルール」や「1房飾細胞・1糸球体ルール」が成り立ちます.約10〜20個の僧帽細胞と50個ほどの房飾細胞が1つの糸球体へと主樹状突起を伸ばします.そこで,1つの糸球体に所属する数千個の嗅細胞群と数十個の僧帽細胞群や房飾細胞群をすべてまとめて「糸球体モジュール」とよんでいます.特定のモジュールでは,それに対応する嗅覚受容体からの匂い情報をそのモジュールに属する僧帽細胞群と房飾細胞群を介して上位中枢へと伝達しています.新しい視点とは,「嗅球から嗅皮質へと投射する2種類の経路のうち,「僧帽細胞からのダイレクト投射経路が先天的経路として本能的な行動判断のために働き,房飾細胞から出発した多重シナプス性の経路は記憶に基づく学習判断のために働く」との考え方です1)

大脳皮質での先天的な神経経路(innate circuits)と学習経路(learned circuits)の区分は,古くから哲学者や教育学者が議論してきた「生得観念 vs. 経験学習」の問題に関して,脳神経科学からのアプローチを可能にするものだと思われます.例えば,ジョン・ロック(1632〜1704)は,「人間は生まれるときは何も書かれていない白板(タブラ・ラーサ)であり,いかなる生得的な観念ももっていない.人間は経験によって賢くなる」と考え,先天的に備わる本能経路の働きを無視し学習経路の働きを重要視しました.一方,ジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)は,「人間は生まれながらに善良な気持ちをもつので,それを教育で育てる必要がある」と考え,先天的な本能経路の存在と本能経路を土台とした学習経路の形成を予測しました.脳神経科学がさらに進歩して,大脳における先天的神経経路と学習神経経路が解明されていくと,長年続いてきた「生得観念vs.経験学習」の問題に,科学的な根拠をもって答えることができるようになると期待しています.

坂野 同様に東洋でも密教が,小我と大我という2つの意識のカテゴリーを提唱し,学習経路と先天的経路を介した異なる意志決定の在り方を示唆していますね.普段私達は,学習判断の方が本能判断より上等だと考えて居ますが,密教ではこの学習判断こそが煩悩の源であり,この小我を滅して大我に目覚めることが悟りにつながると言っているのは興味深いところです.では最後に,3番目の比較軸である「呼吸相と匂い情報の処理」および「外界情報と内界情報の対比」についてお話していただきましょう.

環境情報と体内情報

 大脳による外界・内界の情報処理と呼吸相(吸息相―呼息相)の意識的な調節の関係について,嗅覚神経系で明らかになった事柄は以下の通りです.外界にある匂い分子は,息の開始とともに鼻腔内に吸い込まれて嗅細胞に到達するので,外界の匂い情報は息時に嗅細胞で受けとられて大脳へと入力します.一方,口腔内の食べものから出た匂い分子は,息の開始とともに咽頭から後鼻孔を通って嗅細胞に到達するので,口腔内(内界)の匂い情報は息時に嗅細胞で受けとられて大脳へと運ばれます13)

坂野先生と最近書いた総説7)で私は,「嗅球―嗅皮質へとつながる大脳の嗅覚経路は,嗅球の外側地図(lateral map)から出発し外界の嗅覚情報を息時に処理する外側経路と,嗅球の内側地図(medial map)から出発し内界の嗅覚情報を息時に処理する内側経路にわかれている」という仮説を出しました(図3).また,「大脳が外界の匂い情報に注意(attention)を向けるときには,トップダウン注意シグナルを息時に外側経路に送って外界情報の処理を促進する」が,「内界の匂い情報に注意を向けるときには,その注意シグナルを息時に内側経路に送り内界情報の処理を促進する」という考えを提唱しました.

大脳が意識的に外界情報に注意を向けることと息の開始が関係し,内界情報に注意を向けることと息の開始が関係することは,嗅覚以外の感覚系でも観察されるように思います.例えばヒトでは,瞼を閉じている状態から瞼を開けて外界に注目する際に,息の開始が伴います.興味のあるものを見つけ出そうと眼球を動かすときにも,息の開始が伴います.一方,外界を見るのを避けようと瞼を閉じると,同時に息は終了します.

別の例として,マウスが外界の探索行動を行うときには,鼻の動き,すなわち呼吸とヒゲの動きをリズミックに連動させるのが観察されます14)15).マウスは頭を前方に固定すると,ヒゲを前方へ突き出して対象物に接触させ,同時に息を開始し匂いを吸い込み,鼻を動かして鼻先を引っ込めます.これに続いて,ヒゲを後方に引っ込め対象物との接触をなくし,息を開始し匂いの吸い込みを終え,頭部を後退させます.これらのことから,大脳が外界情報を得ようとするときには,意識的な息の開始と感覚経路の機能の促進を,嗅覚系に限らず,すべての外受容感覚系にわたり調整していると考えられます.

大脳のなかで生起した感情の表現や意思決定された運動の遂行開始は,息相と強く関連しています.特に顕著なのはヒトの会話行動で,大脳は息を複雑に調整することで,内界で生起した感情や考えを息相で言葉に変えて表現します.相手の話を聞くときは,外界に注意を向けますが,話を相手に伝えるときには,自分の脳内の感情や思考に注意を向け,息を利用して言葉を発します.

このように考えますと,嗅覚系で観察される「外界と内界に対する注意スイッチと,吸息相と呼息相の意識スイッチの関連」は,大脳全体の働きを考えるうえでも有用なのではないかと思われます.大脳が積極的に外界情報に注意(attention)を向けるときには,意識的に息を開始し,同時に大脳の外界情報をプロセスする多くの領野に注意信号を送ると考えられます.一方,大脳が自分の内界の情報に注意を向けるときには息を開始し,同時に大脳の内界情報をプロセスする領野に注意信号を向けると想像されます.ヒトや動物がとる意識的行動では,外界と内界の注意スイッチが次々と起こり,これが目的行動を遂行するうえで中心的な働きをしますので,大脳における呼吸相と関連した内界・外界の注意スイッチのアイディアは,将来の大脳機能の研究において重要な役割を果たすものと期待しています.

坂野 なるほど,たいへん興味深いお話ですね.私達も普段,息をのむとか息を殺すとか言いますし,感情の発露や快感を感じるときに息を吐くことなどは,日常的に経験するところです.このように,「脳の働きと呼吸フェーズが密接に相関している」という事実は一般の人たちにも興味のあることだと思うのですが,森先生の場合,嗅覚系を用いて電気生理学的に,回路レベルでこのことをお示しになっているのが凄いと思います.

また外界情報と内界情報の対比については最近,体内の痛みや飢えや渇き,発熱など,内界情報の研究に目がむけられるようになってきました16).これまで主流だった五感を介して入ってくる環境情報の研究に対し,体内の生理学的情報の受容と対応,ホメオスタシス維持の分子生物学的研究の発展が期待されます.

──第4回「注意喚起とやる気」へ続きます

文献

1) Mori K & Sakano H:Annu Rev Physiol, 83:231-256, doi:10.1146/annurev-physiol-031820-092824(2021)

2) Inokuchi K, et al:Nat Commun, 8:15977, doi:10.1038/ncomms15977(2017)

3) Saito H, et al:Nat Commun, 8:16011, doi:10.1038/ncomms16011(2017)

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7) Mori K & Sakano H:Front Behav Neurosci, 16:943647, doi:10.3389/fnbeh.2022.943647(2022)

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13) Shepherd GM:Neurogastronomy, Columbia Univ. Press, New York(2012)

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16) 「本能行動のサイエンス」(岡 雄輝/企画),実験医学,40:3048-3097(2022)

坂野 仁(Hitoshi Sakano):1976年,京都大学大学院理学研究科生物物理学専攻博士課程修了(理学博士),カリフォルニア大学サンディエゴ校化学部博士研究員.’78年,スイスバーゼル免疫学研究所研究員,’81年,カリフォルニア大学バークレー校微生物・免疫学部Assistant Professor,Associate Professorを経て’92年,同分子細胞生物学部免疫学部門Full Professor(’96年まで).’94年から東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻教授,2012年,東京大学名誉教授.’13年より福井大学医学部高次脳機能部門特命教授(現在に至る).

森 憲作(Kensaku Mori):1974年,大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了(’78年工学博士).群馬大学医学部助手・講師,イエール大学医学部Research Associate,を経て’87年,大阪バイオサイエンス研究所副部長.’95年,理化学研究所ニューロン機能研究グループグループディレクター.2000年から東京大学大学院医学系研究科機能生物学専攻教授.’15年,東京大学名誉教授.’15年より理化学研究所脳神経科学センター客員主管研究員(現在に至る).