バイオメディカルの展望を訊く―キーパーソンインタビュー

パーソナルゲノムの時代に考えること

北野宏明(ソニーコンピュータサイエンス研究所)

北野先生

私は,現在システムバイオロジーを創薬に応用する研究を一つのテーマとして行っています.今,製薬企業と共同で,薬の有効性の予測や副作用について研究を行っています.また同時に興味を持っているのが,これからパーソナルゲノム時代を迎えるにあたって,ヘルスケア全般において起こりうるさまざまな問題です.

CureからCareへ

ゲノムシークエンスの高速化により,個々のゲノム情報から病気が予測できる時代になりました.現在,ベンチャー企業が3~4社あり,4万円程でキットを買ってサンプルを送付すれば,主なSNPsについて解析を行ってくれます.糖尿病,高血圧,癌などのリスクについて報告書で知らせてくれるのです.そんなときに,もし数十年後にある病気が発症するリスクが人より5割高い,と言われたらどうすれば良いでしょうか?

病気のリスクが判明した場合,病気の種類によっては予防のために食事をコントロールすることくらいはできるかもしれません.しかし,根本的なリスクを下げるような薬はありません.例えば30年間抗癌剤を飲み続けるわけにはいきません.長年飲み続けて,リスクよりもベネフィットが高くなる薬でなくてはならないのです.「検査からもう5年経った,10年経った」とストレスを感じることになります.現在は,自発的な検査ですが,いずれ全員が調べる日がくるかもしれません.

近年,「Cure(治療)からCare(予防)へ」と言われるように,これから「Care」の比重が圧倒的に高くなります.病気になってからなんとかするより,病気にならない努力をする方が,極めて前向きで合理性があると思います.しかし,今のドラッグディスカバリーの研究は,病気になった後の「Cure」を目指しています.もし,遺伝的なバックグランドで病気のリスクが高いことがわかった時にどうするか.これまでは「うちは癌家系だから」という不確かな認識があった程度ですが,シークエンスをしてしまえば証拠を突きつけられたようなものです.今のところ「Care」に重点を置き始めて大きな動きになっているのはメタボリックシンドロームくらいでしょうか.

新たな問題が顕在化する

そこで,生命倫理的な大きな問題が生じてきます.例えば自分の遺伝的なバックグランドとして深刻な疾病などの形質があり,さらにそれが遺伝することがわかったらどうすべきか? さらには自分のガールフレンドや奥さんのゲノムを調べた時に,「あれ,この遺伝子の組み合わせ大丈夫?」ということがあり得るのです.

将来,遺伝子を操作してから受精卵をつくる,という技術が出てくるかもしれません.現在,受精卵,精子,卵子などの生殖系の遺伝子を操作することは,基本的に生命倫理上禁止されています.しかし,もしSNPsを調べてみて病気のリスクがあることがわかっていて,技術のうえでは治すことができる場合に,逆にそれを治さないことは倫理的にいいのか,という問題も浮上します.これは映画『ガタカ(Gattaca)』のようなSF的な話ですが,やはりパーソナルゲノムの衝撃はそういうところに出てくると思います.これまで知り得なかったことが,技術の発達によって顕在化するということです.

※米国のSF映画(1997年).タイトルのGattacaはDNAの塩基であるG,A,T,Cを含んでいる.出生前の遺伝子操作で優れた知能と体力をもつ『適正者』,自然出産で産まれた『不適正者』とされる人が生きる未来社会を描いている.

$1,000ゲノムが目標とされていますが,数万円でヒトゲノムが読めるようになると,このような問題はどんどん身近になってくると思います.それらの情報に基づいてヘルスケアを管理し,QOLを上げていこうというのは極めて合理的です.また,そうでないとおそらくこれ以上医療システムはもたないし,クオリティが上がっていかないと思います.しかし、パーソナルゲノムの時代になると前述の問題が出てくるはずです.「この病気があるから化合物を見つけて薬をつくる」というのは,今後10~20年は主流だと思いますが,少なくとも先進国の医療やヘルスケアは,次の段階に進まざるを得ないのです.そこには,いろいろな新しい研究のテーマやビジネスの可能性があると同時に,考えなくてはならないことがたくさんあるのです.

本コンテンツの続きをご覧いただくためには「羊土社HP会員」のご登録が必要です.

プロフィール

北野宏明(Hiroaki Kitano)
1984年,国際基督教大学教養学部理学科(物理学専攻)卒業後,日本電気(株)に入社,ソフトウェア生産技術研究所勤務.’88年より米カーネギー・メロン大学客員研究員.’91年,京都大学博士号(工学)取得.’93年,ソニーコンピュータサイエンス研究所入社.’96年,同シリアリサーチャー,2002年,同取締役副所長,’08年,同取締役所長.1998年10月~2003年9月,科学技術振興事業団ERATO北野共生システムプロジェクト総括責任者兼務.’03年10月~’08年9月,同プロジェクトの発展継続プロジェクト,独立行政法人科学技術振興機構北野共生システムプロジェクト(ERATO-SORST)の総括責任者.’01年4月,特定非営利活動法人システム・バイオロジー研究機構を設立,会長を務める.Computers and Thought Award(1993),Prix Ars Electronica(2000)等授賞.
紙面と表紙

実験医学2009年8月号に以下の関連記事が掲載されています。

【特別インタビュー】

システム生物学から迫る生命の本質,そして創薬ヘルスケアへ

掲載号の詳細はコチラをご覧下さい。

サイドメニュー開く