フィクションで読む最新論文

04『ミトコンドリアの歌を聴け』

一、

「完璧なオルガネラなどといったものは存在しない。完璧な真核生物がいないようにね」

東北にある大学の見るからに古い建物の中にある研究室で、その人はまだ学部生だった僕に向かってそう言った。研究室の前の廊下の蛍光灯がチカチカと今にも切れそうに点滅している月曜の午後で、きっとこの人は僕以外に研究室訪問をする学部生がおらず、やけになっているのだろうとも思った。どうせこの学生もこの研究室には来ないのだろう、と。

おおかたの予想を裏切っててっきり僕が自分の研究室を選ぶだろうと思っていた学科長の予想さえもその誰一人として学生のいない研究室に進んだ僕は、研究についての多くを彼女に学んだ。実験計画の立て方から、先行研究の調べ方、実験そのものの手法、データ解析に論文の書き方、殆ど全部というべきかもしれない。

彼女の名前は 饗庭 あいば ユウリといった。ユウリは若く、アメリカでの留学先で著名な科学雑誌に論文を発表し、将来を期待されてこの大学で自分の研究室を持つに至ったものの、それ以外のことは “不毛” としかいいようのない状況だった。留学先で始めた研究が国内では評価されずに外部研究費が取れず、研究費が取れないから、新しいデータが出ない。そして、新しいデータが出ないから、また外部研究費が取れない。それでも、何とか論文を書いて発表し、自分自身のオリジナルなテーマで、国内外の有名研究者と伍することのできる非凡な研究者の一人でもあった。ユウリの研究に対する姿勢は彼らに決して劣るものではないだろう、と僕は思う。

でも残念なことに、彼女は最後まで学会やもっと大きな研究を取り巻く世界のなかで上手く立ち振る舞うことができなかった。おそらく彼女は研究以外のことに対しても純粋すぎたのだろう。結局のところ、 “不毛” とはそういうもので、8年と2カ月、不慮の事故に巻き込まれて亡くなるその時まで、彼女はその不毛な闘いを続けた。彼女の死は事故の犠牲者という文脈のなかで話題になることはあっても、生前と同じように、彼女がどんな研究をしていたかということはたいした話題にはならなかった。

二、

「ミトコンドリアもヘルニアになるのを聞いたことがあるかい?」

ある夏の夕暮れ、飼育しているマウスの様子を見て帰るところだった僕を見つけて、ユウリがにやりと笑って言った。その時僕は前の週に痛めた腰にコルセットをつけていて、それを見て思いついたのだろう。周りには僕以外の人間はいないのだし、それが院生部屋兼講師部屋のコーヒーミルに向かって話したのでなければ、たぶんそういうことだ。

「何ですか、それ」

僕はそう答えた。

「メタファーさ。知らないのかい?」

整った顔立ちの彼女が、こんなにも下品な笑みを浮かべるときはきっと何かある、そう思っていた。前に彼女が愛読していた村上春樹の小説を僕が読んでいないことについて、同じようにくどくどと質問されたことを思い出す。

「いけませんかね。それと僕の腰のコルセットに何か関係が?」

僕は半分うんざりとした調子で、カバンに実験ノートとラップトップをしまい、アパートに帰る準備をしながらそう言った。

「いけなくはないさ。それに、君が痛めた腰と関係あるかどうかと聞かれれば、おそらくは関係ない」

関係ないのでしたら、と帰ろうとする僕にお構いなしに彼女は続ける。

「Tiganoというアメリカの研究者たちの研究でね、ミトコンドリアDNAに二重鎖破壊が起こるとミトコンドリアRNAが細胞質に漏出して

そういう彼女の言葉に、僕は居室のドアノブにかけた手を止めて一瞬考え込む。

「椎間板ヘルニアだって飛び出してくるものとヘルニアとを合わせて呼ぶのだし、それだと、ミトコンドリアヘルニアではなくて、ミトコンドリアRNAヘルニアでは?」

僕がそう答えてしまって、彼女がその透き通るようなきれいな顔を破顔させたのを見ると、僕は自分が帰るタイミングを逸したんだということに気づいて、「やれやれ」と深くため息をついた。ちょうど夕立が来たらしく、雨が激しく窓をたたき出したのを言い訳に、「……雨があがるまでですよ」と断りを入れて部屋に戻る。ユウリは「それで構わないさ」と安物の豆で淹れた珈琲を僕に手渡す。

「まずは君の指摘だけれど、これは著者たちもその前の他の論文(McArthur K,et al.:Science, 2018)でもmitochondrial herniationって言っているのだから、どうしようもない。そう決まっている」

ユウリはそう答えて自分のカップの中の珈琲を啜る。つられて僕もそのただの水に色がついているだけの、薄く味のほとんどしない珈琲に口をつける。研究費の不採択通知に,論文のリジェクトの連絡メール、それに事務仕事の催促、嫌いなものは数えればきりがないが、今になって思えば、実験と猫とこのユウリの淹れてくれた珈琲は数少ない好きだったものの中に入るのかもしれない。

「饗庭先生。それで、そのミトコンドリアのヘルニアが何なんですか?」と僕は言った。

「ミトコンドリアDNAに変異が生じて、それが蓄積してしまうと様々な病因になることはわかるだろう? もしミトコンドリアDNAで二重鎖破壊が起きた場合に、そのことを核に知らせる “逆行性シグナル伝達(retrograde signalling)” はどのようなものなのかを調べた結果、BAX-BAKを介してミトコンドリアヘルニアが起きて、細胞質に放出されたミトコンドリアRNAがⅠ型インターフェロン応答を誘導することがわかった」

「逆行性シグナル伝達?」

僕は手にところどころ欠けた珈琲カップを手に持ち、窓の外の雨の様子を気にしながら尋ねる。研究室の学部生が、教員にする質問の態度としては、いささか不躾だったかもしれない。

「君、生命反応とは伝達であるんだよ伝えなくては何も起こらない。ミトコンドリアも自分に異常があるならそれを核に伝えて、それに引き続いて別の反応が起こる。普段の核から転写産物がミトコンドリアに移送されるという流れとは逆方向という意味で、逆行性シグナル伝達というのさ。ここではSTAT1のリン酸化とRIG-I-MAVS経路の活性化が起こり、まるでRNAウイルスへの防御機構と同じような反応が起こる」

そこまで言葉を出し切って、ふうと一呼吸ついてから、ユウリは僕の顔をじっと見つめさっきまでとは違う雰囲気で続ける。

「何かを起こす時には、自分の異常なんかを伝えないといけない。それは私たち人間だって同じだと思わないか? ……君が思ってることも言ってくれないとわからない。それに、君も知っての通り、私はいつもこんな調子だ。他のPIよりもその部分の能力は高くない。だから

突然鳴り響いた雷鳴で、ユウリは大声をあげて僕に飛びついた。その拍子によろめいて、彼女が僕に馬乗りになるような恰好で倒れこむ。同時に彼女の持っていたぬるくなった薄い珈琲が僕のシャツの胸のあたりに零れて気持ち悪かったのと、痛めていた腰に激痛が走ったのだけれど、それが気にならないくらいには彼女の顔が自分の顔の近くに位置していることの方が気になっていた。

「ぷっ、あははは」

どちらからでもない、ほぼ同時に笑いだした僕たちは、夜遅くに雨が上がるまで、その論文や研究について話し合った。この時から、僕はユウリときちんと話せるようになったんだと思う。

「君、前にも言ったように、生命反応とは伝達であるんだよ」

博士課程が終わって、そのまま一年だけのポスドクになった僕のバックのなかで、なかなか渡せずにいた安物のとは言っても、当時の僕には大金の指輪のことを見透かして、そう言った彼女は、半月後に事故に巻き込まれて遠くに旅立ってしまった。

“あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない” 。彼女が好きだった村上春樹の一節の通りに。

三、

それからずいぶんと経って、神戸の街で大学の生物学の教員となった僕は、結婚もして、もう子供も2人いる。それでもユウリに渡すはずだった鈍色の指輪はどうしても捨てきれずにいて、大学の机の引き出しに閉まってあった。あの東北の大学ほどではないものの、やはり古く建付けの悪い窓が風でカタカタと揺れる。

窓を開けると、梅雨が明けたばかりの気持ちのいい夕暮れの風と、どこからかムーンライト・セレナーデが流れてくる。吹奏楽部の練習だろうか。そのところどころ躓き、たどたどしいながらも語りかけてくるようなその演奏は、不毛ながらも懸命に生きた彼女と、今日の神戸の街にぴったりだ、とそう思って引き出しを閉じる。きっとこの感傷はこの曲のせいなのだろうそう思いながら。

(了)

Tigano M, et al:Nature, 591:477-481, 2021

ミトコンドリアDNA二重鎖破壊が起きた場合の反応について、ゲノム編集技術・TALENによる人為的二重鎖破壊を用いて解析し、ミトコンドリアからミトコンドリアRNAが漏出し、STAT1のリン酸化およびRIG-I-MAVS経路の活性化を経て、Ⅰ型インターフェロン応答を引き起こすことを明らかにした論文。

著者プロフィール

西園啓文
金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。
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