特別寄稿 アジア圏の
サイエンスネットワークの実現に
身を捧げた新井賢一先生 その業績をたたえる中国からのメッセージ

2018年4月9日に突然逝去された新井賢一先生に関する本エッセイは,CSHA(Cold Spring Harbor Asia)設立者,CEOであるMaoyen Chi博士により執筆されました.Chi博士は1980年初頭からアジア圏のサイエンスの勃興を目指した活動(AMBO,A-IMBNの設立)をされていた新井先生と2000年代後半に知己を得て,CSHAの設立と日本での活動にあたり大きな援助を受けました.10年間にわたる交流の中で,新井先生の壮大な夢と,その実現に向けた莫大な努力,そして,その品格,寛大さ,優しさ,親切さに触れてきたChi博士は,新井先生の軌跡を母国の中国人にぜひ知ってもらいたいと考え,この文章を執筆しました.その結果,全中国で30万人を超える人々に読まれて感動を与えたということです.私は,修士1年から新井先生の薫陶を受け,公私ともにお世話になり,その研究に対する情熱,研究者育成のための支援,そして,本稿で述べられる国際的な研究ネットワーク構築に向けた新井先生の幅広い活動を40年間近くにわたり目の当たりにしてきました.日本人ではなく外国人が新井先生の業績を称えて記載したということは,真に国際的な活動をされた,新井先生を象徴するものです.また,アジア圏における科学のネットワークを広げる新井先生の活動は―これはまだ道半ばではありますが,今この国際状況の中,益々重要になると思われます.新井先生の活動を若い研究者の方々に知っていただき,後に続く方が現れてくることを祈り,今回日本語に翻訳し,羊土社の援助をうけ,ここに公開することができました.

東京都医学総合研究所 所長 正井久雄

新井賢一先生
新井賢一先生

〈新井賢一先生のご略歴〉
1967年東京大学医学部卒業.’74年東京大学医学系大学院博士課程修了.’74〜’81年東京大学医科学研究所助手.’77〜’80年スタンフォード大学医学部生化学教室(アーサー・コーンバーグ教授)留学.’81〜’90年DNAX分子生物学研究所分子生物学部長.’89年より東京大学医科学研究所教授,アジア環太平洋分子生物ネットワーク代表.’98〜2003年東京大学医科学研究所所長.

新井先生は1989年1月号より小誌編集委員,2009年4月号より編集幹事を務められ,長年にわたって編集のご指導をいただきました.先生の日本や米国でのご研究活動,またアジア圏における分子生物学の発展への貢献を讃える中国からのメッセージをぜひお伝えしたく,掲載させていただきました.(編集部)

新井先生を偲んで

季 茂業(Maoyen Chi)

Maoyen Chi博士は,ワシントン州立大学を卒業後,2001年にオハイオ州立大学で学位を取得.Cold Spring Harbor研究所のWigler博士の研究室でポスドク研究を行った後,James Watson博士らとともにCSHA(Cold Spring Harbor Asia)の創立に参画,設立CEOとして現在に至る.

日本語翻訳:郭 暁麗(東京都医学総合研究所 視覚病態プロジェクト)
補訳:正井久雄

新井賢一先生が2018年にご逝去された.先生には2009年から10年間にわたり公私ともに大変お世話になった.先生が私にして下さった全てのこと,先生の温かい笑顔やその面影はよく私の頭に浮かんでくる.何度も,新井先生のことを文章にまとめ,先生の素晴らしき人生を世界中,特に中華圏に紹介したいと思った.しかし,コロナ前の私は世の中の多くの人と同様に仕事や雑事に追われていた.コロナで仕事と生活のスピードが緩くなったことでこれまで歩いてきた道や途中で出会った方々のことを振り返ることができた.

新井先生は非常に特殊な日本人で,多くの内気な日本人と異なり情熱に溢れ,心が広く優しさの中に厳格さがあった.先生は実行主義者であり広い視野と寛大な心を持つ国際主義者でもある.先生の壮大な科学人としての生涯は以下の三つのステップに分けられる:一,勉学の時期;二,科学研究の時期;三,科学界活動の時期.私が先生と知り合い,いろいろ教えていただいたのは第三の時期である.新井先生を全面的,立体的に理解するためにまず先生の勉学および科学研究について簡単に紹介する.

東京大学での勉学時期

中国の現在の基準から見ても新井先生はまさしく「学霸」(まじめに学業に励み,成績が優秀な人)である.先生は1967年に東京大学医学部を卒業され,7年後に東京大学医学系大学院で医学博士号を修得された.博士課程では素晴らしい研究成果が得られ,タンパク質合成の過程におけるペプチド鎖伸長の重要なステップを解明した.アミノ酸分子をつなげてペプチド合成するには関連分子が整然と働く必要がある.その中で主要な役割をはたしているのが伸長因子(elongation factor Tu,EF-Tu)である.新井先生の研究はこのEF-TuがGTP-GDP(分子のバッテリーのようなもの)変換サイクルを利用してアミノ酸をペプチドに加えて伸長させる機構を明らかにした1).この研究は新井先生の恩師である上代淑人先生の研究室で完成された.GTP-GDP変換によるconformation変化が,ペプチド鎖合成を推進するという発見は,その後ノーベル賞を受賞することになったGTP結合タンパク質共役受容体によるGタンパク質の活性化メカニズムや,発がん遺伝子rasなどの低分子Gタンパク質のGTP型-GDP型変換による分子スイッチメカニズムの発見に先駆けるものであった.この成果で新井先生は1976年の日本生化学会の奨励賞を受賞された.また,博士課程で先生は同じ研究室のもう一人の「学霸」である直子先生と結婚された.素晴らしい研究成果と恩師の推薦で新井夫妻は1977年から,米国カリフォルニアのスタンフォード大学にあった1959年のノーベル賞受賞者Arthur Kornberg研究室でポスドクとして3年間研究を行った.

東京大学医学部の学生であった頃の新井先生

ポスドクおよびバイオテク企業での研究活動(カリフォルニアでの歳月)

学生時代に「学霸」だった新井先生は,研究者としては「拼命三郎」(とても頑張り屋,仕事の虫)であった.3年間で数多くの研究成果が得られ14本以上の論文を発表された2)〜15).そのうちの8本は同じ号のJournal of Biological Chemistry誌に掲載され空前の記録を作られた2)〜9)(未だに破られていないだろう)! コロンビア大学の教授ポジションなど数多くのオファーをもらったが,新井先生は日本に帰国し母校東京大学の助手として上代先生の研究室に戻った.しかし,当時の日本社会はまだキャリアウーマンが受け入れられず,優秀な直子先生さえよい研究の仕事を見つけられなかった.カリフォルニアの気さくな開放感に慣れていた新井夫妻は人生において初めての「逆カルチャーショック」を受けた.彼らは日本の「イエスマン文化」に適応できず間もなくカリフォルニアに戻ることを決心した.

災い転じて福となす.1980年代初め,Arthur Kornbergはサンフランシスコベイエリアで活躍する2名の生命科学研究の重鎮Paul Berg(DNA組換え技術でノーベル賞受賞),Charles Yanofskyと研究型バイオテクベンチャーDNAX分子細胞生物学研究所を創設した.しかし,3人とも兼業であったため実質の研究所の研究の推進者が必要であった.新井先生はちょうどその時Kornberg先生から請われ,東京からカリフォルニアに戻りDNAX研究所に参画した.新井先生は分子生物学研究部門の部長に就任されDNAX研究所の研究推進の核となった.Arthur Kornbergは新井先生について以下のように評価していた.「新井はその才能,見識およびエネルギーでDNAXのベストの研究者となり……原動力であった.彼は免疫学を独学し,免疫学者に分子生物学を教え,科学の橋渡し役でもあった」16).この評価からDNAXにおける新井先生の重要性が推測できる.彼は日本から十数名の科学者を招いて活力に富んだチームを作り日本の最初の分子生物学およびバイオテク人材を育成した.新井先生が率いる日本人科学者チームの研究成果はとても素晴らしくinterleukin/cytokine(interleukin-3,-4,GM-CSFなど)とその受容体のクローニングおよび細胞内シグナル伝達の研究において当時の免疫学研究の最前線となっていた17)〜20)

新井先生がDNAXに勤めていた10年間,彼の「拼命三郎」の勢いは益々旺盛になっていった.「Let’s start right away!」というのが先生の口癖であった.それは言葉だけではなく行動で示されていた.例えばレストランでのディスカッションからアイディアが得られるとどんなに夜遅くでも休日でも,先生は直ちに実験室に戻り実験し始めた.DNAXの経歴により新井先生は基礎科学のみでなく,バイオテク産業のadvocatorとなった.

日本人同僚や学生とDNAX で(上)髭を生やしているのが新井先生,左隣は宮島篤先生,直子夫人.(下)Palo Alto 市内の公園で行われたBBQ party に集まったDNAX 研究所の日本人研究者とその家族.

アジア太平洋地域における科学的人文活動

新井先生の科学プラットフォーム構想

カリフォルニアで過ごした十数年間,新井先生は多大な研究成果を得るとともに,バイオテク産業界で豊富な経験を蓄積し,広い分野を見渡す視野とリーダーシップ力をさらに成長させた.Kornbergラボの緊張した雰囲気の中の闊達な研究文化,スタンフォード大学の学術の自由平等な雰囲気は異文化で育った日本の若い科学者を深く感化した.新井先生の外向的・活発な性格は多くの日本人と比べ際立っていた.また二度にわたるカリフォルニアでの生活は,新井先生の熱意と意欲が溢れる人格の発展および,その後の科学界での生涯に深く影響を及ぼした.先生は日本の上下関係を重んじる慣習と,学問や行政の権威におもねる学術文化は科学の発展を阻害し,地道な科学研究過程における数少ない楽しみを奪っていることを強く認識していた.またアジア太平洋地域の国々が,団結・協力せず科学研究を進めている状況を改善したいと考えた.新井先生は自由な国際文化を日本の科学界やアジア太平洋地域に持ち込み,アジア太平洋地域の科学プラットフォームを作ることをカリフォルニアで初めて構想した.

アメリカ・ヨーロッパで設立されたプラットフォーム

1950年代のDNAの二重らせん構造の発見からヒトゲノムの解読完了に至る歴史的背景の中で,大西洋両岸の国々の生命科学は著しく発展し競い合うようになっていた.科学的交流も空前の需要であった.学術機関間の交流が頻繁になり,アメリカでは各国の学者に最も規範的かつ専門的な交流サービスを提供する国際プラットフォームが初めて確立された.その中の典型がニューヨークロングアイランドにあるCold Spring Harbor Laboratory (CSHL)である.CSHLは1962年のノーベル賞受賞者James Watsonにより統率され生命科学界において広く賞賛され大きな影響力を持つようになっていた.

科学研究は,人類が自然に対して有する思想や認識が絶えず更新され洗練される過程である.学術思想の頻繁な交流や論争,科学的実験および検査は科学発展において必ず通るべき道である.科学交流プラットフォームは急速な科学発展を促進する十分かつ必要な条件である(なお,私はCSHLが作った「交流―実験」を促す独特な科学研究システムをCSHLモデルと命名している).

科学の発祥地としてヨーロッパ科学界も歴史的文化的背景からこの「交流―実験」モデルを非常に深く理解している.1960年代からヨーロッパとイギリスの科学者は北米科学界に遅れないように何度も議論を重ね,1964年にCSHLモデルを参考にEuropean Molecular Biology Organization (EMBO)を創設した21).西ドイツのフォルクスワーゲン社が250万マルクを出資し,ハイデルベルク市が郊外の土地を無償で提供した.Watsonのケンブリッジ大学ポスドク時代の指導教官John KendrewがEMBOの初代事務総長になった.その10年後EMBOの隣にヨーロッパの公立実験室European Molecular Biology Laboratory(EMBL)が設立され,学術議論と科学研究が協働しながらお互いに発展することになった.EMBO/EMBLはCSHL設立後の国際科学界におけるもう一つの「交流―実験」システムになった.記すべきは,このようなプラットフォームの設立は表面的な人気を集めたのみでなく,科学の進展を著しく加速させた.もっと重要なのはこのようなプラットフォームからトップレベルの科学者人材が次々と現れて各国の科学院メンバーやノーベル賞受賞者も輩出したことである.ヨーロッパはこのプラットフォームの設立により生命科学領域において北米と匹敵する戦略的地位を確立した.

左:EMBO の初代事務総長John Kendrew
右:ドイツハイデルベルク市郊外にあるEMBO/EMBL
左:EMBOの初会議
右:EMBO/EMBL国際科学会議の休憩時間の様子

アジアでのプラットフォーム設立へ

1990年に新井先生は再び日本に帰国し,母校東京大学医科学研究所(The Institute of Medical Science, The University of Tokyo,IMSUT)の教授に就任された.その後先生はIMSUTの所長も務められた.

新井先生は,アジア太平洋地域において同様な科学交流機構の設立を目指し,命の最後まで労を惜しまなかった.

戦後,日本の経済が発展し1960年代から世界で注目され欧米との生命科学活動の交流はますます盛んになっていた.1981年にJames Watson,Arthur Kornbergらの科学者は東京で開かれた国際生物化学会を機にアジア太平洋版のEMBO,すなわちAsia Molecular Biology Organization(AMBO)の設立を呼びかけた.AMBOのもとでアジア太平洋諸国が政治,宗教や種族の違いを超え科学を一緒に探究する構想であった.アジア太平洋地域でAMBOを設立することは,先生の一生揺るぎない目標と夢であった.

自国中心的なアジア太平洋地域においては,政府や財団の支援がなければその傾向が顕著になり,AMBOの設立は困難を極めることになる.科学者らの多くはAMBOが国々および研究者に恩恵をもたらすものであると認識し,共にAMBOを設立したいと考えたが,アジア太平洋地域は政治的環境が極めて複雑である.夢は美しいが,実現には時期尚早で現実離れした感があった.新井先生もこのことをよく理解されてAMBOは一挙にではなく段階を踏んで実現していく必要があると認識されていた.その一歩としてまず科学者協会を作り,協会のもとで東アジア地区の学術会議を開くことを考えられた.

左:中国人科学者を含む国際科学者団体によるAMBO設立に関する東京提案(1980年)
右:新井先生など日本人科学者によるIMBL設立に関する最初の提案(1997年)

幸い新井先生の考えには賛同者がいた.日本人同僚のほか,韓国ソウル大学分子生物学遺伝学研究所所長のJeongbin Yim教授も同じ夢を持っていた.Yim教授はマサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業された後韓国に戻り,新井先生と同様な挑戦に立ち向かった.彼も帰国後の再適応や欧米と異なる学術界の雰囲気に苦戦していた.そのため,1993年にお二人が初めて会った後,すぐに連携して東京大学とソウル大学の学術交流プロジェクトを開いた.これを基盤に,1997年新井先生はAMBO設立に実質的な一歩を踏み出しAsia-Pacific International Molecular Biology Network(A-IMBN,アジア太平洋分子生物学ネットワーク)を設立した.運営資金として新井夫妻はA-IMBNに10万ドルを寄付された.20年以上の発展でA-IMBNは20個以上のアジア太平洋地域の経済団体が属し,毎年各メンバーの国において学術集会を開催してきた.

新井先生はAMBOの設立は科学界の協力のほか資金の調達も大事であることを認識し,カリフォルニアDNAXでの経験を活かした.先生は産業界の友人と共に日本と韓国でA-IMBNの投資基金を設立し22),いくつかのバイオテク会社を設立した.2004年にA-IMBNはAPECでアジア太平洋地域の国際科学組織として認可された.これら多次元的な活動と成果は,アジア太平洋地域での科学プラットフォームの設立を目指す貴重な試みと努力であり,後進に道を開いた.1990年代に新井先生が再び日本に戻ってから2018年までの間,高い志を持ちながら地道に努力してこられ,彼は不可能に挑戦し成功したのであった.

上左:新井先生とYim教授が先導で設立したA-IMBN 1997〜1998年に東京およびソウルで学術会議を開催.
上右:2012年に新井先生がマレーシアベナン島でA-IMBN年会を主催
下左:2004年にA-IMBNはAPECでアジア太平洋地域の国際科学組織として認可された
下右:2010年4月6日CSHAテープカット式典 右から3番目が新井先生,2番目がYim教授,左から5番目が蘇州工業園区責任者の馬明龍さんである.

2006年,私はJames WatsonとCSHL研究所上層部に対して,蘇州でCold Spring Harbor Asia(CSHA)を設立することの了承を得た.私は当時,新井先生の努力やA-IMBNの存在を知らなかった.しかし,その後すぐ新井先生および彼の同僚達と知り合った.CSHAとA-IMBNは同じ理念,共同の目標を持ち,並行しながら同じ目的地に向かう2本の列車である.アジア太平洋地域において大西洋両岸との科学交流やトレーニングができる国際総合プラットフォームの構築が目標であった.この2本の並行列車は必ず出会い,同じ目的地につく.2010年CSHAが蘇州で設立され新井先生とYim教授はVIPとして招かれテープカットして下さった.その時から私と新井先生およびYim教授との交流はますます頻繁になった.

CSHAのサービス範囲はアジア太平洋全地域であり,中国の科学団体,太平洋の国々の科学団体に共同な学術圏を作った.設立当初からCSHAは国際性を持つことを念頭に置いていた.日中両国はアジア太平洋地区において最も活躍する大国である.CSHAを成功させるには中国科学者だけの認知と参加では足りない.日本科学者団体の参加がなければ最も基本である国際性を語れず,他の全ても机上の空論である.CSHA設立当初から私はこれを認識していた.CSHAを設立した後,私は多くの努力を費やして日本人科学者と知り合いになり,その存在を知らせた.この過程において私とCSHAに多大なご尽力をして下さった新井先生への御恩は一生忘れない.その中から私は新井先生の品格,独特の魅力や寛大な心を認識した.

左:新井先生が東京港区で主催した大型会議で私にCSHAを紹介するチャンスを下さった
下左:2015 年新井先生の東京白金台にあるオフィスで(宮島教授と)
下中:新井先生がオフィスで日本人科学者について説明する
下右:2016 年ベトナムホーチミン市で開催されたA-IMBN の理事会に私が招かれた際の,新井先生とYim 教授との記念写真

新井先生との思い出

新井先生は色々な会議で,司会者であると同時に撮影記録係もしていて彼のデジタルカメラで参加者の写真を撮っていた.会議が終わり私がホテルに到着する前に,いつも新井先生からのメールが届き写真が数多く添付されていた.写真のファイルサイズはいつも約75Kbであった.私は最初,写真を多く添付するために一つひとつのサイズを小さくしたのだろうと思っていたがその後これは新井先生の数十年の記録習慣であることを知った.このような会議の記録のほか,桜が咲く季節や東日本大震災の時も新井先生からたくさんの写真を送っていただいた.先生の目に映る春の雰囲気や先生のお気遣いを感じられた.新井先生がご逝去された後,誰もが先生のメールや写真を非常に懐かしがっていた.

2016年に,新井先生は突然彼が持っていたAMBO設立のファイル一箱以上を私に下さった.中には1980年代に国際生命科学研究所(IMBL)を設立する日本語の提案,1997年6月28日第1回国際分子生物学ネットワーク会議(IMBN,A-IMBNと改名する前)などのファイルが入っていた.その後デジタルファイルもたくさんいただいた.先生は私たちがバトンを受け取り,アジア太平洋地域の科学ネットワークをもっとよくしていくことを願っていたのだろう.

2018年4月のある日の朝,私がジョギングから帰った直後に新井先生の一番弟子の正井久雄先生から先生の訃報をもらった.あまりにも突然だった! その一カ月後に東京で会い,更なる協力を話し合う約束をしていたのに.新井先生は璀璨(キラキラ輝く様子)の流れ星,満開な桜のごとくこの世に美しいものを残して静かに去っていた.

2019年桜満開の季節に新井先生を偲ぶ会が開かれた.IMSUTキャンパスの桜は新井先生の素晴らしき人生と気品のごとくに,キラキラと清らかに咲いていた.古い友人が新井先生を偲ぶために世界各国から集まり,先生の美しく素晴らしい人生を思い出しては,笑いと感動の涙をにじませていた.

上左:2019年桜が咲く東京にて開催された新井先生を偲ぶ会遺影を持たれたのが直子夫人で,夫人の右側にしゃがんでいるのが新井先生のご高弟正井久雄先生である.
上右:2010年CSHA始動時の新井先生の署名
下左:私は2019年新井先生を偲ぶ会で新井先生に敬意を払いスピーチをした
下右:CSHA神戸会議で私は新井先生のことを紹介した

偲ぶ会に参加された何名かは,新井先生との思い出を語る中で,新井先生が2010年のCSHA始動時に署名をされたガラス玉の写真を用いておられた.先生と我々の縁は運命づけられていたと強く感じる.

中国大陸からの参加者は私だけであったため,新井先生のことを中国語世界の読者にシェアすべきであると思い,この文章を書きおろした.

2019年末,CSHAは兵庫県の淡路島で慣例の国際学術会議を開催し多くの日本人科学者が参加された.会議が終わる1時間前に私は「新井先生」というセミナーを開催し参加者全員,特に未来の科学者の学生達に,この特別セミナーで私が知っている新井先生を紹介した.私は新井先生の夢を実現する後継者がいることを願っている.新井先生の寛大な心を倣い,アジア太平洋地区の科学者達が手を繋ぎ,この地区における科学や技術の更なる発展,調和の取れた社会が実現されることを願っている.

CSHA設立者,CEO 季 茂業博士 2021年10月,蘇州

知識分子(zhishifenzi)より許可を得て翻訳・掲載

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  • TNPパートナーズ
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