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02『パパは任期つき』

「お父さん、これ」

そう言って、娘のサクラが渡してきたのは『授業参観のお知らせ』だった。そこには、来週水曜日の午前中から午後のPTA総会までびっしりと予定が書かれている。一瞬、「うっ」と言葉に詰まる。

「……いいよ、お仕事忙しいもんね」

俺が「サクラ、あのな」と言うよりも先に、サクラが諦めたようにプリントを引っ込める。

「それより、ご飯にしよ?」

俺は「あ、ああ」と何も言えないまま、スーパーのタイムセールで買ってきた弁当を二つ、小さなテーブルに並べる。格安で借りている電車の駅からだいぶ離れた一軒家は、もうだいぶ古く、窓はカタカタとすきま風で震えている。サクラは手馴れた様子で、スーパーの半額弁当を電子レンジで温める。

六月灯 なつまえ 達雄都内の大学で働く研究者だ。

専門はライフサイエンス、氷河期の就職難で、今は何とか見つけた任期付きの特任研究員をしている。ライフサイエンスで研究職というただでさえ勤務時間が不規則な上に、任期三年という不安定な職で、何度も繰り返した引っ越しで、娘のサクラにはいつも辛い思いをさせている。ただでさえ片親でさみしいはずなのに。

「どうしたの? 食べないの?」

そんな俺を気遣って娘が聞いてくる。俺は「いや、何でもない」と、半額弁当に箸をのばす。妻が交通事故でなくなってから二年、いつもこんなことの繰り返しだった。

「あの……教授、来週の水曜日ですけど、休暇いただけませんか?」

翌日、俺は朝一で教授室のドアを叩いた。

「別にいいけど、有給残っているの? プロジェクト雇用でしょ?」

俺は「え、ええ。そこは大丈夫です」と言葉を濁しながら、教授室を後にする。

実際は全然大丈夫なんかじゃない。

もう有給をほとんど娘のことで使い切ってしまっていて、教授たち裁量労働制の教員とは違い、日給月給制の俺は、これからは休めば休むだけ、給料が減っていく。

そして何より、このまま何の成果もでないままだと、任期が切れた後の再就職は難しいだろう。そんな何とも言えない不安を抱えて、過去にはそれが原因でサクラに辛くあたってしまって反省したこともある。

「……っさん、お父さんってば! どうしたの? ご飯、冷めちゃうよ」

その日の晩、考えこんでいた俺をサクラが心配そうにのぞきこんできた。その顔にはどこか不安がにじんでいる。

「い、いや、何でも……なぁ、サクラ、お前さみしくはないか?」

とっさにそんなことを口走ってしまう。母親が死んでからまだ日も浅く、しかも場合によっては土日も出勤するような俺といて、さみしくないはずがないだろうに。

「ううん、お父さんがいてくれるから。でも

いつも年に不相応なまでに俺を気遣うサクラが、言葉の途中でうつむく。

「でも? なんだ、教えてくれ」

俺はほとんど不満を口にしないサクラの言葉にびっくりして、焦ったように尋ねる。

「あのね、お父さん、前はもっとお話ししてくれたよ? 今は、ご飯のときも、テレビみているときも、ほとんどお話してくれない。いつも怖い顔してる……」

俺はハッとした。確かに、あと一年半後に迎える任期切れのことで頭がいっぱいになっていたかもしれない。それでまた娘に心配されるなんて。

「ごめんな、サクラ。お父さん、ちょっとこのごろ考え事が多かったから。これからはちゃんとサクラとお話するようにするよ。でも、何の話をすればいいのか

俺が、素直に話題がみつからないことを言おうとすると、サクラはテーブルに置いていた論文のハンドアウトを「これがいい! この写真は何?」と元気よく指さす。

「これ!? いや、これはお仕事で使う論文で、サクラには難しいと思うんだが……」

サクラは「それでもこれがいいの!」とゆずらない。

「まったく、しょうがないな。そういう変なところで頑固なのはお母さんそっくりだ」

うっかり妻の話題を出してしまって、俺は慌ててサクラの顔を見るが、サクラは「えへへ」と笑っている。もう “お母さんのいない生活” を少しは受け入れ始めている娘を見て、その変化に俺の方が驚いてしまった。

「……これはQiangという人の研究で、簡単に言うと、お母さんのお腹のなかの赤ちゃんを外から観察するための『窓』についての研究だ」

「まど?」

サクラは不思議そうに首をかしげる。

「そう、窓だ。この写真はマウスねずみさんのお母さんのお腹の中で赤ちゃんがどう成長するかをこんな風に観察したものだよ」

そう言って、俺は論文の図を指さす。そこには妊娠したマウスの母体に取り付けられた透明な『窓』から、発生途中の胎仔を観察している写真が載っている。

「ねぇ、お父さん、どうして赤ちゃんの写真を見る必要があるの?」

意外にも興味があるような素振りでサクラが聞き返してくる。

「赤ちゃんがお母さんのお腹のなかでどんな風に大きくなっていくかっていうことは、少しはわかっているけど、まだ詳しくはわかっていないんだよ。それは人間でも同じだ。だから、こうやって顕微鏡で目で見ながら観察したり、実験したりすることはとても大事なことなんだよ」

俺の説明に「ふーん」と言いながら、サクラはまじまじと写真を見つめている。

「こんな『まど』つけて、赤ちゃんは大丈夫なの?」

サクラが少し心配そうに言う。

「ああ、大丈夫。『窓』をつけてもE9.5……じゃないな、えーっと、ある程度の大きさになった赤ちゃんならほとんど何事もなく産まれてくると書いてあるよ」

「そうなんだ、よかった! それで、こっちの赤とか緑の写真は何?」

そう言って、安心した様子のサクラが蛍光顕微鏡の写真を小さな指でさす。

「ああ、それはあるタンパク質や細胞がどの時期のどんな場所にあるかを示しているんだが……難しいよな?」

案の定、サクラはうーんと唸っている。

「お父さんやサクラ、それにこのねずみさんも、身体は『細胞』という目に見えない小さな箱で出来ていて、それは『核酸』や『脂質』、それに『タンパク質』というたくさんの部品から出来ているんだよ」

「その部品を見て何の役に立つの?」

サクラは興味津々に聞き返してくる。

「赤ちゃんの時に、正しい場所で、正しい部品がないと、赤ちゃんが死んだり、病気になったりするんだよ。でも、その理由もまだはっきりとはわからないし、本当にその部品が必要なのかもまだわかってないから、こうやって調べてるんだ」

「お父さんのお仕事って、たいせつなお仕事なんだね!」

サクラはそう言ってきらきらと目を輝かせて、こちらを見上げているその瞬間、俺は亡くなった妻の楓の若い頃の言葉を思い出した。

『今はまだ不安定で辛いかもしれないけど、大切な仕事だもの、一緒に頑張ろう?』

結婚する少し前、俺が大学院を出て最初の職の任期が切れる前で、無職になってしまうかもしれないと楓に相談したときの言葉だった。思えば、あの頃は楓が支えてくれて、今はサクラが必死で頑張ってくれている。俺はあまりにも「一人で頑張っている」と思い込みすぎていたのかもしれない。

「……なぁ、サクラ。お父さんといて楽しいか?」

「うん、とっても楽しいよ!」

サクラは何の迷いもなく即答する。

「そっか。あのな、サクラ。お父さん、お仕事も頑張るけど、これからはサクラとの時間も大切にする。最近心配かけてばかりで、ごめんな」

俺がそう言うと、「急にどうしたの? 変なのー」とサクラは笑う。

「……それとな、今度の水曜日の授業参観、行けることになったから。サクラの勉強するところもちゃんと見ないとな」

「ほんと!? やったー!」

サクラはやっと見せた年相応の笑顔ではしゃいでいる。気づくと、外は雪になっていたようで、建付けの悪い窓から冷たいすきま風が吹き込んでいる。

「それじゃぁ、サクラ、ホットココアのむ! お母さんがね、寒いときは夜でも飲んでいいって言ってた!」

サクラは笑顔のまま、ぱたぱたと台所に向かっていく。あんなに笑っている娘の姿は本当に久しぶりかもしれない。

きっと俺は、本当に何もかも背負いこみすぎていたのだろう。

確かに、今は任期つきの特任研究員と不安定で、将来の見通しは甘くはない。でも、無邪気な娘の笑顔と亡き妻の言葉を思い出して、もう少しだけ、人生を楽しんでみようと思うことにしたのだった。

(了)

Huang Q, et al:Intravital imaging of mouse embryos. Science, 368:181-186, 2020

妊娠しているマウスの子宮に透明なガラス製の『窓』をつけることで、体外培養が難しいE9.5以降の胎仔を生きたまま観察できる技術を開発した論文。窓を取り付けるタイミングで胎仔への影響はことなるが、E9.5以降であれば80%以上が正常に発生する。二光子顕微鏡やウイルスベクター注入、in utero electroporationなどのアプリケーションと組合わせることも可能。

著者プロフィール

西園啓文
金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。
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