寄稿「私が医学を志した理由 〜ハワイへ渡った医師の回顧録」

ハワイで長年にわたって家庭医療に取り組んできた医師が,自ら歩んだ道のりを振り返り,医学を目指した頃の思いを綴ります.

後編カッティング先生との
一期一会

ハワイの地を私が踏んだのは1967年6月15日でした.当時の私は希望に燃えた恐れ知らず(無知)の高校卒業後1年の若者で,夏一杯ハワイ大学の学生寮であるジョンソンホールから,キャンパス内で開かれるTOEFLのクラスに通い,英語の特訓を受けました.9月の新学期には隣の石切場の崖の上からワイキキとアラモアナを一望できるツインタワーのゲイトウェイハウスの3階に移り,ハワイ大学の1年生としてスタートしました.そもそも沖縄から出た最初の旅はUSCAR(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands,米国琉球民政府)発行のパスポート※1を使い,乗客は軍人で一杯の,今はなきブラニフ航空のチャーター機でした.嗚咽する母を,すぐに帰って来るからとなだめながら,嘉手納米軍飛行場から飛び立ちました.私を見送ってから,母は東の空を眺め,毎晩私の無事を祈る日々が続きました.そのとき私も母も,私が一生をハワイに捧げることになるとは夢にも思っていませんでした.

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日本では高校から大学医学部に進学できます.私は一方的にハワイもそうだと思い込んでいて,入学したのが医学進学のための学士課程(以降,医学進学課程)で,学士号を得てはじめて医学部受験の資格が与えられるとわかり,かなり落胆しました.しかしUSCARからの奨学金※2は学費,本,寮,飛行機代等すべて無料のうえ,給料も1日7.5ドル(後に8.5ドル/日へ.当時1ドル※3=360円であった)支払われるので一応医学進学課程をめざすことにしました.無料で勉強させてもらって給料も払ってくれる奨学金は他にないでしょう.この時点ですでに母に言った「すぐに帰るから」が覆ってしまい,医学進学課程4年,医学部4年,研修3年と最低11年は帰れないことになり,親不孝という言葉が頭に閃きました.医学進学課程での専攻は微生物学に決めました.これは将来医学の基礎になったので賢明な選択だったと思っています.日本で大学受験の勉強をしたお陰で最初の2年間は比較的容易でGPA(grade point average)を上位に保つことができました.

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私のルームメイトは後に産婦人科医になる,ボストン出身の陽気なダン・チュウバ(Dan Chuba).スイートメイト(トイレや洗面所など共有スペースをシェアする隣人)は元軍人のロランド中島(Roland Nakashima)で,誠実でとても親切な人でした.両名とも2年終了後,米国本土の医学部に転校しました.ダンが自慢げに本屋から買った新品のホワイトコート※4を試着し,ブラックバッグを片手に,聴診器を首に掛けて私の前で「どう思う?」とはしゃいでいたのが懐かしく思い出されます.ロランドは本国で結婚して,研修後ハワイに帰り,長年多忙な形成外科クリニックを営みました.この時点では彼のご両親が将来私の患者さんになるとは予想できませんでした.

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あるとき,英語が上手に喋れないまま,はじめてのプリメド・クラブ※5に参加したら,優秀そうな米国人メンバー達に嘲笑され,侮辱されました.確かに英語もろくに喋れない外国人が,医学部に入学できる訳がないと思われるのは当然でしょう.彼らの正体がわかり,以後参加しないことにしました.成績が悪ければ強制帰国させられるので,常に勉強に追われ,時はすぐに過ぎました.予習をすると教授の講義がほぼ100%理解できたのに対し時々の冗談は全くわかりませんでした.テレビのシットコム(シチュエーションコメディ),ニュースもすべて理解できません.ちなみに,青春を謳歌し勉強を怠った仲間たちは2年で帰郷しました.

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1970年の夏,大学4年生のとき,私はプリメド・アドバイザーのウォルフ女史(Ms Wolf)に相談に行きました.私のGPAは上々でMCAT(medical college admission test,米国の医学部入学のための統一試験)もまあ良好の方でしたが語学の点数は悪く,最低に近かったのです.これでは米国のどこの医学部の面接にも招待されないと思い,得策がないかと訪れたのでした.ウォルフ女史はしばらく私の成績表を調べていましたが急に電話をとり,誰かと話したあと立ち上がり,私のフォルダを片手に,付いてくるように言いました.私が連れられて行ったところは何とハワイ大学医学部の初代学長ウィンザー・カッティング(Windsor Cutting)先生のオフィスでした(とは後で知りました).目的は即興の面接でした.何事かわからず,ただ,カッティング先生のデスクの前の椅子に座り,ウォルフ女史はフォルダをカッティング先生に渡して私の傍に腰掛けました.低く威厳のある声で,カッティング先生は私のフォルダの中身を見ながら,眼鏡越しに私に話かけられました.開口一番,「君は沖縄から来たのだな?」と言う問いに自信をもって,即座に「はい,そうです!」と答えました.次の質問は,「沖縄にマラリアはあるか?」…そんなもの私が知る由もなく,今度は小さな声で「知りません」と答え,その後次々と聞かれる質問にはほとんど「知りません」と言うだけでした.最後の質問は「米国本土の医学部に応募する予定があるか?」でした.これは言語道断で「ノォー!」とはっきり答えました.結局,自信をもって答えられたのは最初と最後の質問だけで,面接としては落第でした.

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1970年の暮れ,カッティング先生とお逢いした記憶も薄れ出した頃,一通のハガキが届きました.何とそれに信じられないようなことが書かれていたのです.「あなたはハワイ大学の医学部に合格しました」と記してあり,不可解に思いました.なぜなら,私はいまだ医学部に応募しておらず申込書作成をしようかと思っていた段階でした.カッティング先生との面接が私の合格の裏にあったのは疑う余地がありません.大学には早期通知という規則があり,もし不合格なら他の大学の申込に間に合うように,早めに知らせるしくみになっています.カッティング先生とお会いしたのはものの15分足らずでした.しかし,この一瞬の対面で私の人生が永久に変わりました.いわゆる「一期一会※6」,一生で一度の出会いの出来事です.これで私は正式にハワイ大学医学部の1年生になり,ハワイ大学の構内に新築された近代的なバイオメディカル・サイエンス・ビルディングをわれわれが最初に使うことになりました.ついに弟の死がもたらした,幼い頃の夢であった医師になる一歩が踏めました.

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私が入学して,まもなくカッティング先生はご病気になり,やむなく退官されて病気の療養に専念なさいました.術後,一時良好でしたが突然悪化して,カッティング先生は64歳の若さで1972年5月29日,メモリアルデー(米国の戦没将兵追悼記念日)にご昇天なさいました.ご挨拶に上がり感謝の意をあらわす機会に恵まれないまま永遠にお別れしたことが一生悔まれます.薬学の本「Cutting’s Handbook of Pharmacology(1962)」は先生との想い出のためにいつも私の本棚に飾ってあります.この本は京都大学医学部出身の柴田章次先生の協力で完成したもので,柴田先生はカッティング先生に招かれて,米国本土から帰国途中にハワイに立ち寄り,結局ハワイに永住なさいました.柴田先生にはハワイ大学医学部1年生のときに薬学の基礎を教えていただきました.後に,柴田先生ご夫妻は私の患者さんになり,御恩をお返しする機会が得られたことは幸運に思います.

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私の医学部入学は1回の面接だけで,通常の面接と推薦状3名分,エッセイの提出,ボランティア活動等すべてを免除された事情がご理解いただけるでしょうか? もちろん,入学後の苦労は言うにおよびません.基礎医学,臨床医学,専門医学を学び,英語と医学英語という二重のハンディを凌いで,米国人医学生たちと競争しながら友情の絆を築いていきました.臨床医学は初代内科部長のケクニ・ブレイズデル(Kekuni Blaisdell)※7先生から,最も基本なH&P(history&physical exam,問診・身体所見)を教えてもらいました.H&Pを何度書き直しても“rewrite and resubmit”というコメントでした.立場が代わって,学生へH&Pを教える側になり,いかにブレイズデル先生がご苦労されたかがよく理解できました.苦しみも,楽しみもあった医学部4年間は早や過ぎ,1975年6月,62名の4年制医学部の第一期の1人として,「ハワイ大学医学部」を卒業しました.そのとき,ハワイに医学校をつくるべく尽力された親日系のジョン・A・バーンズハワイ州知事※8(当時)はご他界直後で,「ハワイ大学ジョン・A・バーンズ医学部」と名乗るのは後しばらくしてからです.

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カッティング先生は学士号を1928年,医学博士号を1932年に,ご両親が卒業したスタンフォード大学から授かっています.卒後研修はサンフランシスコのレーン・スタンフォード病院で受けて,後期研修をロンドンのミドルセックス病院で過ごしました.帰国した後1936〜1938年に,ジョンズ・ホプキンズ大学で内科と薬学を勉強しました.1938年からスタンフォード大学に招聘され,最初,助教授として教鞭をとられ,1953〜1957年にはスタンフォード大学医学部の学長をお務めになられました.先生は2つの専門ジャーナル,Annual Review of MedicineとAnnual Review of Pharmacologyを立ち上げその初代編集長も兼ねました.200以上の執筆があり,数冊の本も出版なさいました.1964年,バーンズ ハワイ州知事の依頼で,テレンス・ロジャーズ(Terrence Rogers)※9博士(PhD)が,カッティング先生を説き伏せ,ハワイに医学校を設立する目的で来布※10されました.ハワイ大学医学部の前身になるパシフィック・バイオメディカル研究所の所長として赴任し,翌1965年,初代ハワイ大学医学部学長に就任して奮闘し,最初2年制の医学部を立ち上げ,4年後に4年制の医学部に仕上げました.しかし,残念ながらカッティング先生はその実を見ないまま御昇天なされ,その後を継いでロジャーズ博士が第2代目の学長(1972〜1988年)として長年ご活躍し現在のハワイ大学医学部に発展しました.

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カッティング先生への恩は山より高く海より深く,カッティング先生との15分の出会いがなければ今日の私はなかったと断言できます.私は医者という,かけがえのない名誉と特権をカッティング先生から授かりました.授かりものゆえに,一時も私が医者であることを当然だと思ったことはなく,いつも謙虚な気持ちで慎重に医学に対処してきました.私はミシガン州での研修を1978年に修了し※11,その後ハワイに戻って開業直後ハワイ大学医学部に招聘され,今日に至っています.カッティング先生への御恩返しは,とにかくハワイ大学の医学生,また,アジアの各国から研修に来る学生たちを,親身になって分け隔てなく無償で教えることだと思い,現在まで実行してきました.正確には無償ではなく,金銭より崇高な報酬があります.それは,教え子たちがそれぞれの道を進み立派な医者になる過程で,彼らの人生の一部を私と共有した事実です.また,昔の教え子が専門の道に進み,今度は私が難関の患者さんのコンサルトを乞う立場に立ったとき,人知れず誇らしい気分に浸ります.これは確かに金銭に換算することができない,かけがえのない報酬です.

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私はカッティング先生へ思いを馳せるとき,先生が私を入学させたギャンブルの果実が実り,幾分でも先生の期待に叶ったことを切に願っています.先生は最後の2年制の卒業式のときの祝辞に下記のメッセージを卒業生に送っています.「軽く朗らかに旅をしなさい.無用の長物に人生を迷わされないように.誰からでも学ぶことができる.金持ちになるな,それは楽しみを失わせ貴方の善徳を麻痺させるから.私が言わんとしているのは,もちろん一生学びの喜びを忘れないこと.ただ世間に追従するのではなく,輝かしい眼をもった理想的思想者であることを恐れないこと.」

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私の医師としての長い旅路を振り返るに,確かに辛いことも多かったですが大部分は軽く,朗らかでした.急激に変わる医学の進歩に遅れないよう,毎日勉強して1,300ページに及ぶ「道場マニュアル」を書き,20数回のケースレポートを発表しました.そして,学生たちからも患者様からも多く学びました.カッティング先生の忠告通り金持ちにはなりませんでした.私の学生指導は他に追従することなく,日本の「武士道※12」に則って,自分の信念を貫いた指導をしたつもりです.もちろん,この歳でも心はまだ若者で学びの喜びを味わい,私の理想の医師像を胸に抱き,病気という敵の見える最前線で,初心を忘れず,自分に課せられた使命を果たすべく日夜闘っています.柴田先生から頂戴したカッティング先生の写真は私の両親の写真とともに私のオフィスの本棚の上に祀ってあり,常に私の仕事を上から見守っています.

渡慶次仁一(Jinichi Tokeshi)

ハワイ大学ジョン・A・バーンズ医学部 家庭医療学/老年医学 臨床教授

Clinical Professor Family Medicine/Geriatrics

John A Burns School of Medicine

University of Hawaii