フィクションで読む最新論文

09『メッセージ・フロム』

『やぁ、元気?』

パソコンのディスプレイの右下、グループチャットアプリの通知画面からメッセージが飛び出してくる。それはとても晴れた日の午前11時のことで、窓の外ではキャンパスを埋めつくしていた桜がもうすっかりと散ってしまっている。僕は午前5時の世界に住んでいる彼女からメッセージが届いたことに、ただただ驚いていた。

『それはこちらが尋ねることだよ』

『どうして?』

彼女のメッセージは地球の裏側に近い場所から数分で返ってくる。こういう性格だったな、と画面の前で吹き出す。ここ数日、彼女の住んでいる国が頻繁にニュースで話題になっていた。

『私と一緒に見た桜はもう咲きましたか?』

こちらが返信するよりも前に届いた次のメッセージに、ここ十数年忘れていた景色が目の前に広がる。

確かあれは長崎のN先生の研究室で博士課程の学生だった彼女が、学会発表の帰りに僕の所属していた大学のポスドクの採用試験に来訪したときのことだったと思う。その年は4月の初めまで東京でも雪が降るような気候で、開花の遅れていた桜がちょうど満開になって彼女を迎えたのだった。遠い外国からの留学生だったとはいえ、日本で数回目の春ではあったはずで、「何故そんなに桜に感動することができるのか」、僕は無邪気というか不躾というべきか、そんなことを尋ねてしまったのだったと思う。長崎から明らかに着慣れていない様子のスーツ姿で訪れていた彼女は、一瞬きょとんとした後で大笑いした。

その後、無事に同じポスドクとして採用された彼女と共に、何度も桜を見に出かけた。

最初の頃はポスドクの同僚として研究のことだったり、そのうち同棲相手として他愛のないことだったり、時には喧嘩をしながら、僕たちは多くのことを話した。やがて僕が都内で、彼女が母国で研究者としてポジションを得て帰国する頃には、僕たちは“親友”という間柄で、お互いの門出を見送った。

『桜はもう散ってしまっていて、今は新緑がきれいだよ』

僕はそう返信して、鮮やかな緑色に染まった母校のキャンパスの写真を送る。彼女はすぐにその写真にスタンプを付けたあとで、こう返信してきた。

『あなたはその時にTCAサイクルの話をした。覚えてますか?』

メッセージの後ろには笑っている絵文字が添えられている。僕はまだ若かった自分の姿を思い出してしまい、苦笑いをする。

「え? TCAサイクル?」

彼女はきょとんとしてこちらを振り返る。

ポスドクの採用試験を受けに来る女性のエスコートを教授から頼まれたのは昨日の夕方のことで、お互い英語が母国語ではない者同士の日常会話なんて全然準備してきていなかった。結局、僕は先週読んだNatureの論文の話をしてしまったのだった。

それにしても、切り出し方はもう少し考えればよかったかもしれない。彼女はかすかに震えながら笑うのを必死で堪えている。金色の髪に桜の花びらが一片、簪のように挟まっている。

「Krebsが鳩の胸筋細胞から定型のTCAサイクルを報告して、僕たちはずっとそれが唯一の中心的な細胞内代謝だと思っていたのだけど、実はもっと別の回路もあって、それが細胞の状態にも連動しているって話……読まなかった?」

「いいえ、読んでないわ。続けて?」

彼女は優しく微笑む。

「僕たちのよく知る定型のTCAサイクルはクエン酸がアコニターゼ(ACO2)とイソクエン酸デヒドロゲナーゼ(IDH3A)によってα-ケトグルタル酸に代謝されていくだろう? でもミトコンドリアで生産されたクエン酸が細胞質に輸送され、クエン酸/リンゴ酸アンチポーター(SLC25A1)やATPクエン酸リアーゼ(ACL)によって代謝され、最終的にミトコンドリアのオキサロ酢酸を再生する非定型のTCAサイクルがあるんだよ」

「そんなもの、細胞は何に使うの?」

「利点はいくつかあって、ACLがクエン酸をオキサロ酢酸に異化するときにはアセチル-CoAを生成するから、これがタンパク質のアセチル化や脂質の生合成の元となるし、解糖に必要な細胞質NADを再生して、ミトコンドリアのNADHの生成を抑制するとか、定型のTCAサイクルと違ったエネルギー戦略を執ることが可能になるんだ」

彼女は興味がある素振りを見せて、話の続きを待っている。

「で、このTCAを阻害するとES細胞では分化が阻害されたり、がん細胞ではin vitroin vivoで定型・非定型のどちらになるかわかれていたりするらしい。これまで“わかりきったこと”だと思っているものにも、面白い発見があるって意味で僕にはとても興味深いものだったんだけど……」

早口でしゃべりきった後で、おそるおそる彼女の反応を見てみる。

「面白い! ……でも、初対面で、かつキャンパスの案内をしている今話すことかしら?」

彼女は意地悪そうな顔をした後で大声を出して笑い、僕もつられて笑ってしまう。その後は、もう気遣うこともなく、あれこれと研究の話をした。この関係は、彼女がポスドクとしてやってきた後もほとんど変わることがなかった。

『ビデオ通話にしないのかい?』

少しの間物思いにふけった後で、久しぶりに親友の顔を見てみたいと思って返信する。何年か前にアメリカの学会で再開した際に、優しそうなパートナーと小さな子を連れてきていた。きっと大きくなっているはずだろう。いや、まだ向こうは早朝なのだから起きていないかもしれないな、そんなことをこの時は考えていた。

『やめておく。いま寝起きだし、きっととてもひどい顔をしているし』

彼女はそう返信してきた。

ついさっきまで忘れていた近頃のニュースを思い出して、『そういえばそっちは大丈夫なのかい?』と打ち込もうとした矢先に彼女から『また明日。またみんなと一緒に研究がしたい』とメッセージが送られてくる。僕はそれに『ああ、そうだね。またみんなと一緒に』と返信する。

翌日になって、彼女の住んでいた街がまるで廃墟のようになってしまった映像がテレビで流れる。それは突然のことで、僕は急いでグループチャットアプリを立ち上げて昨日のやりとりを見返そうとした。

でも、そこには何も見当たらない。

昨日のことは夢だったのだろうか、そんな馬鹿な! 僕たちは確かにメッセージのやり取りをしたはずだ。そう焦っている最中に、別の昔のポスドク仲間からグループチャットのメッセージが送られてきた。彼もあの頃、僕や彼女とともに桜の咲くあのキャンパスで一緒に研究をした仲間の一人だった。

『信じられないかもしれないけど』

彼はそう切り出した。

『信じられないかもしれないけど僕は昨日、彼女とメッセージをやりとりしたんだ。君も知っている通り、僕はいま彼女の住んでいる隣の国にいる。だから、もしできることがあれば助けになれるって』

彼はところどころにスペルミスをしたまま、焦ったように綴る。

『でも彼女は最後に“またみんなと一緒に研究がしたい”とだけ。もう一度彼女に連絡を取ろうとしたのだけど、彼女とのやり取り自体が見当たらないんだ』

と、僕に起こったことと同じようなことが、彼にも起こっていることを告げていた。それから僕たちはあの頃の研究室の仲間たちやその知り合い、学会で彼女に関わりのあった研究者に連絡を取って、彼女の安否を確認しようとした。でも、その多くは徒労に終わり、彼女の行方は分からないままその年が終わった。

それからずいぶんと経って、かつてのポスドク仲間たちが集まることがあった。今年度で退官する恩師の仕切りで、久しぶりのオンサイトの国際学会を日本で開催するというので、僕を含め何らかの仕事を振られている。

恩師はレセプションの前に、彼女をはじめとした今回の出来事で犠牲となった方々の追悼会を開いた。少し前にやっと発見された彼女は、愛する娘をかばうように折り重なったままの姿で亡くなっていたらしい。恩師は涙を堪えた声で話す。おそらく僕たちとメッセージのやり取りをする数日前に亡くなったのだろうという報告だった。

僕たちは誰から誘うわけでもなくレセプション会場を離れて、キャンパスのなかでも桜並木の続くエリアに集まる。そこは僕が初めて彼女を案内した場所でもあった。

「……何か一緒に共同研究できないかな」

僕は重苦しい雰囲気のなかで口にする。

集まっていた国籍も年齢も性別もばらばらなあの頃のポスドク仲間たちは一瞬驚いた後で、まるであの時の彼女のように大声で笑う。

後で聞いたことであるのだけれど、不思議なことに僕らの他にも多くのポスドク仲間たちが彼女からの最後の『また一緒に研究がしたい』というメッセージを受け取っていて、どこかでそういう想いがあったらしい。そして、僕が話を切り出すタイミングを計れないのは、あの頃のまま変わらないらしい。

もちろん全員がそれに賛同したわけでもないし、現在の研究内容から参加できなかった者も、すでに研究業界から身を引いた者もいる。それでも、春の風が最後に残っていた花びらを散らしてまた鮮やかな緑の季節になる頃には、僕たちは彼女からの最後のメッセージを胸に、また一緒に研究を始めたのだった。

(了)

Arnold PK, et al:Nature, 603:477-481, 2022

哺乳細胞内のTCAサイクルの中に、通常のサイクルとは別のミトコンドリアで生成されたクエン酸を細胞質に運び、ATPクエン酸リアーゼなどの働きによりオキサロ酢酸を再生することでミトコンドリア内のオキサロ酢酸・クエン酸を維持するための非定型サイクルがあり、細胞の状態と連動していることを実験的に示した論文。

著者プロフィール

西園啓文
金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。
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