フィクションで読む最新論文 第2シーズンスタート

12『さよならの日にはこれからの研究を』

「……っと、ぎりぎり間に合ったか!?」

「とりあえず、荷物預けないと!」

慌てた様子でタクシーから降りた二人組が走って空港のカウンターに向かっていく。

ここは南フロリダの小さな空港で、日本人の姿は彼ら以外にはなく、スペイン語が併記された案内板と、ところどころに置かれている椰子の植木に南国の雰囲気を感じる。空港内のアナウンスはもう二年も住んでいるのに、いまだにところどころ聞き取れないくらいには訛り(といっていいのかわからないが)がきつく、しかしもう聞き取れないということ自体には慣れていて、あまり気にしていない。

「本当にぎりぎりでしたね……」

スーツケースを三つ預けた短髪の背の高い男は、深くため息をつく。

「まさか、研究所の手配したタクシーが時間を間違えてるとはね。危なかった」

もう一人の小柄な男が冷たい珈琲を一つ、大男に渡してゲート内のレストランの椅子に腰かける。ゲートをくぐってしまえば、あとは飛行機を待つだけで、少しだけ時間の余裕があり軽い食事をしようということになった。

「そう言えば、僕、最初にこの空港に降りたときロストバゲージされたんですよね」

大男は二年前に初めて降りたこの空港で航空会社が荷物を無くしてしまった出来事について、苦笑いを浮かべながら話す。男にとっては初めての長期留学で、まだ右も左もわからない状態のまま、荷物までなくなって心細かったのをよく覚えていた。

「そうだっけ?」

「 “先生” には言ってなかったかもしれないですね。ラボに着いた後でデイビッドに話して、航空会社へ電話してもらったりして、二週間後には戻ってきたんですけど」

“先生” と呼ばれた小柄な男はふーんとテーブルにきた珈琲を一口啜る。先生にとっては二十人近くいるポスドクの一人で、それほど細かいことを覚えていられないのも無理はないのかもしれない。今日にしたって、アメリカ国内線がたまたま同じ時間帯だったというだけで一緒に行動しているだけで、本来は日本への本帰国は一人で旅立つ予定だった。

「 “ヒロ” は自分のことまったく話さないからなぁ。入院のときもぎりぎりまで言わないから、皆、大変だった」

「……うっ、それは大変ご迷惑を」

“ヒロ” と呼ばれた大男はポスドク中に一度倒れ、アメリカでの入院を経験していた。それも病院のかかり方がわからず限界まで我慢をしてという理由で、その時は大勢の人に迷惑をかけた。ヒロは大きな体を小さく丸めながら自分の珈琲に口をつける。

「何かお食事のご注文は?」

係りの店員がやってきてそう尋ね、先生はいくつかの軽食をオーダーする。

「ヒロは?」

「いや、僕はいいです。なんか走ったせいで食欲が……」

「お、そういえばそういう論文がNatureに出てたよね。激しい運動した直後には血中にLac-Phe(N-ラクトイル-フェニルアラニン)が増えて食欲が減退するってやつ」

「ああ、マウスだけじゃなくて、ヒトでも競走馬でも確認できてるんですよね。でも、あれってLac-Pheの下流は何なんですかね? 臓器にもあるけど、食欲に関係するのは血中のものだけなんですよね?」

「ディスカッションでもGLP-1とかGDF15などの他の代謝ホルモンとは別の神経回路がありそうって言ってたし、面白いよね。Lac-Pheを合成するCNDP2遺伝子の多型がⅡ型糖尿病に関連付けられてるらしいし」

先生は目をきらきらさせながら話す。そういえば日本で研究していたときには、こういう自分たちの分野とは少し離れた研究の雑談をする相手が少なかったように思う。あるいは年度単位で区切られた任期のせいで、余裕がなかったのかもしれない。

「アメリカというかうちのラボは楽しかった?」

先生がテーブルに届いたサンドイッチに手を伸ばしながら尋ねる。

「何ですか、急に」

突然のことでびっくりして口にしていた珈琲がのどに引っかかってしまう。

「ラボを卒業する人には全員に聞いているんだよ。悪いところもあれば、それも含めて」

ヒロはうーんと唸り考え込んだ後で、答える。

「楽しかったです。一番は、研究に専念できたところが。論文もいっぱい書きましたし」

「確かにヒロは一番多く論文書いたんじゃないかな」

「二年間で四報ですね。いつも原稿が真っ赤になってお手数おかけしました」

自分が書いた論文原稿を先生にメールで送ると、だいたい一週間以内には、真っ赤に訂正されて、『ここはどういう意味?』とか『ここのロジックがわからない』などのコメントで埋め尽くされて帰ってきた。大学院の頃でも指導教員からの返答はもっと時間がかかっていたし、あんなに細かく原稿の修正や指摘を受けたことはなかったので、大変ではあったのだけれど、自分のなかでは新鮮な体験でもあった。

それに、レビュアーコメントへの返答や、エディターとのやりとり、時にはリバッタル(査読結果についての反論)なども、このラボに来て英語圏のPIとして一線で活躍している先生の方法を間近で見れたのは大きかった。

「そうかな? ヒロはよく書けてた方だと思うけど」

「……それ、レヴィにも言われましたけど、あんなに真っ赤になって返ってきてるのに説得力ないっす」

先生はハハハと笑う。

自分の半年ほど前に独立した同僚のポスドクと一緒に論文を書いた際に、確かに『ヒロは論文ちゃんと書けてるよ』とメッセージアプリでコメントされたが、その前後には “初稿にしては” とか “まだ読める” という文言が付いていた。その彼には、ポスドクからPIとしての独立に当たって、先生に切り出すタイミングや、どんな条件を求めるべきかなどのアドバイスをもらったりもした。自分の独立後も共同研究をすることになっている。

「研究所のパーティーのときも聞いたかもしれないけど、ヒロが独立した理由をもう一度聞かせてくれる?」

日本に戻って研究室を立ち上げること自体は、二年目の夏にはすでに決まっていて、レヴィにアドバイスをもらったように、すぐに先生に相談して、この半年間は引き継ぎとフロリダで実験した結果を論文にまとめる作業に費やした。その間はラボのメンバーには特段独立のことは話していなかったのだが、一月になって、いよいよ本帰国の準備を進めているところで、所属していた研究所がお祝いのパーティーを開いてくれた。正直、そこまで注目されているポスドクだったわけでもなかったので、研究所全体でお祝いをしてくれたのには驚いたりもした。

「第一には運よくポストが取れたというのもありますけど、ステップアップという意味では給料も上がりましたし」

「給料の問題? うちは給料では他のラボに負けないつもりなんだけど」

実際、先生のラボの給料は日本で助教をしていたときよりも優遇されていたし、研究所の隣にあるもう一つの有名な研究所のポスドクよりも高かったし、生活に困ることはなかった。

「もちろんそれだけではないです。フロリダに来て二年間、先生のプロジェクト進めて面白い結果も出ましたけど、やはり自分がやりたい研究のフォーカスとは完全に一致しているわけではないですし、自分のやりたい研究を進めたいな、と。ありきたりな答えですけど」

先生がうんうんと頷いていると、先生の飛行機の搭乗案内のアナウンスがスペイン語の混じったような、やはり聞き取りにくい英語で流れる。

「おっと、こっちが先のようだね。じゃあ、日本でも身体に気をつけて」

先生が立ち上がって右手を差し出す。

「あ、すみません。最後にちょっとだけ。最近、Jackson研究所のグループがBxb1インテグラーゼとその導入サイトを使って、CRISPR-Cas9を使わずにサイズの大きな外来DNAをマウスゲノムにノックインする方法を報告してたんですけど、これ、ちょっと一緒に何かできませんかね?」

先生は一瞬きょとんとした後で、さっきよりも大きな声で笑いだす。

「え、え。僕、何かおかしいこと言いましたっけ?」

ヒロは襟足のあたりを搔きながらあたふたとしている。

「いや、あちこち行ったり来たりする研究者にとって、今生の別れというわけでもないし、最後の最後まで研究の話するのはヒロらしくて良いんじゃないかな。じゃあ、また。さっきの話はメッセージアプリでも」

今度こそと言う先生が搭乗口に向かうのを見送って、ヒロも反対側のシカゴ行の搭乗口に向かう。

離陸して、狭いエコノミーの席の窓から、二年間暮らしていた南フロリダの街が小さくなっていく。最初にここに来たときは、言葉もそれほどよくわからなくて、追い打ちをかけるように無くなったスーツケースに心細くなった。それなのに今は離れるのがもったいない気がしてたぶん、もったいないが一番正しい感情だと思うそれがおかしくてふふっと笑う。それを隣の席の年配の女性が『あら? フロリダで良いことでもあったのかしら?』と微笑む。ヒロは少し考えてからこう答えた。

「ええ、もちろん。それは数えきれないほどに」

(了)

Li VL, et al:Nature, 606:785-790, 2022

マウスにおいて運動後に血中に産生されるN-ラクトイル-フェニルアラニン(Lac-Phe)が食欲を制御することを発見した論文。Lac-Pheが運動後に上昇すること自体は以前の研究で明らかになっていたが、その機能として食欲の制御を行っていることなどを新たに実験的に示した。

著者プロフィール

西園啓文
金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。
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