第1回「医学書を通読するなんて、酔狂な暇人のやることである。」|Dr.ヤンデルの 勝手に索引作ります!

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「医学書を通読するなんて、酔狂な暇人のやることである。」

学生時代、医学部には数名の「異常な読書家」がいた。やれ「ハリソンを通読したので、どこに何が書いてあるかだいたい覚えている」だの、「ロビンスを読むのが趣味だ、邦訳よりも原著が美しい」だの、ドヤ顔の好事家スタイルでマウントをとってくるヤカラがうっとうしかった。どうしてだろう、彼らは、試験直前でみんながピリピリしているタイミングを選ぶかのようにして、「いやーちょっと間質性肺炎のこと調べようと思っただけなんだけど、肺炎の項目全部読んじゃったよ(笑)」みたいなことを周囲に聞こえるような声で言うのだ。鼻持ちならないメガネどもめ、スネ毛全部燃えてしまえ、と呪っていた日々を思い出す。

一方、私が、医学書を全く読まない暮らしをしていたかというと、そういうわけでもない。当たり前だけれど、広大な医学を修めるためには辞書的に本を使う必要があった。ハリソンも、朝倉内科学も、EBM現代内科学も、通読こそしなかったが、幾度となく索引を引いたものである。家族性地中海熱ってなんだっけ、Whipple diseaseって日本にあるの、過敏性肺臓炎の原因、副腎クリーゼの診断……。ストライヤーもネッターもラングマンも、一番めくったのは索引だった。広辞苑を引くように教科書を「引いて」いた。私を含めた多くの医学生にとって、医学書というのは「掲載項目が世間のそれとは大きくかけ離れただけの辞書」であったと思う。

その後、医療現場に出て働くようになると、医学書を辞書的に使うシーンはさらに増加した。私は病理診断医であるが、診断に必要な情報の大半は「成書の索引」からアプローチして手に入れる。WHO blue bookと呼ばれる一連のWHO分類、腫瘍病理鑑別診断アトラス(通称・白本)、これらを毎日、何度も何度もめくっているが、入口となるのはいつだって巻末の索引部分だ。あいうえお順、ABC順、必要な情報をピンポイントで拾い集めに行く。該当ページだけを「強拡大」して読み込む。ズームイン朝ならぬズームイン医書。知識の断片をぶっこ抜いてあとは用済み、分厚い本をパタンと閉じる。

ところが、このやり方だけを続けていくと、壁にぶつかるということもわかってきた。自分がある世界を俯瞰しようと思ったとき、特定箇所のクローズアップ的勉強ばかりしていると、いつまでも全貌が見えてこない。ロングショットの視点が身につかないのだ。

たとえば、何かしらの学会発表、あるいは論文執筆においてbackgroundを書かなければいけないとき。あるいは、診断が付く前の段階で、鑑別診断を横断しながら共通点と相違点とを列挙しなければいけないとき。まず必要なのは強拡大ではなく、「弱拡大」の観察であり、ドローン的俯瞰スタイルの方だった。地図をざっと眺めて土地勘を得てからでないと、異郷の小径は怖くて歩けない――。

プロとして働き続けようと思うと、辞書的な本の使い方だけでは通用しない。ときに私たちは網羅しなければいけない。では、どうやって網羅する?

ここでまず連想したのは、国家試験のことだ。あらゆる医者は、一度は医学の世界を端から端まで見学しているはずである。イヤーノートも、クエスチョンバンクも、「病気がみえるシリーズ」も(※私の世代ではSTEPシリーズだったが)、隅々まで勉強した記憶があるだろう。これをもって私たちは、「一度は医学を網羅した経験がある」と胸を張るのだ。非医療者の親族や合コン相手などに、「一応国家試験までは全部の科のことを勉強したんだよ」と、それとなくアピールした人もいるだろう。

ところが、一度は試みたはずの「網羅」は、現場に出るうちに少しずつコレジャナイ感を醸し出す。知識の項目数自体は十分に揃っているのだが、それらをいつ、どのタイミングで、どの順番で発揮すればいいのかがわからない。タテヨコの繋がりが見えてこない感じ。コンテンツ(項目)は豊富なのだけれどコンテキスト(文脈)がない、と言い換えてもいいかもしれない。知識が断片的で、「網」で繋がった曼荼羅になっていないということ。

もちろん、医学生の時期には、後に知性を形作るための部品、すなわち「レゴのパーツ」を集めておく必要がある。イヤーノートを経由すること自体はすばらしいことだ。けれども、部品のままでは作品にならない。組み上げるための訓練が別に必要なのだ。

実臨床では「コンテキストを経由してコンテンツを選び抜くこと」がキモである。知識を「多数の引きだし」に入れたままでは効率が悪い。ネットワークに散らばる多数の情報が芋づる式につなぎ合わされることではじめて、知識は知恵として機能する。だから私たちは現場で「文脈」を求める。

ベッドサイドにそういうニーズがあることを、一番わかっているのはやはり医書出版社、なのだろう。書店やウェブストアには、ゴリゴリの辞書的成書とは別に、「領域の全体像をつかみ、知識を連結させるための教科書」が並んでいる。これらは、成書に比べると読み口が比較的ライトで、ときに口語調であり、中にはLINE会話のような形式で構成されているものもある。基本的にはイラスト満載で、マンガを効果的に使用する。単元ごとのメッセージがより明確で、テイクホームメッセージも掴みやすい。そして、順を追って読めば着実に文脈が手に入るようになっている。そう、これらはすなわち、通読によって文脈を学ぶための医学書なのである。

「通読型の教科書」は、世界を俯瞰したい上級医だけではなく、医学生や研修医にも人気でよく売れる。通読型医書の方が成書よりも発行部数が多いし、名著と呼ばれる本も林立している。ときに、義務感と維持だけで成書を読み通すよりも、通読型の本を読んだ方が明瞭な気づきを得られる場合もあるのだ。

こうして、医師17年目の私は今やすっかり「通読派」である。ただし、これは私が鼻持ちならないマウントメガネに昇格したことを意味しない。通読型の医書でコンテキストを読み、臨床に活かすことを覚えただけだ。シュロスバーグやサパイラのような成書は今でも通読できない。辞書として使う医学書と、通読すべき医学書とをそれぞれ使い分けるようになった。

今日、私の手元に、一冊のすぐれた「通読型の教科書」がある。

『Dr.竜馬のやさしくわかる集中治療 内分泌・消化器編』。

これこそまさに、臨床の文脈の中で知識を身につけるのにもってこいの本だ。しょっちゅう研修医にも勧めている。

ところが先日、とある事件の火種となった。本書を手に取った研修医が、すぐに索引を開いて、こうつぶやいたのである。

「輸液、輸液……。あ、輸液の項目はないんですね」

いやいやいや……。医学書の索引で「輸液」を引くヤツがあるかよ……!

思わず盛大に彼の胸元を手背でツッコみたくなったが、開きかけた口をいったん閉じて、沈黙し、それからやっと、このように伝えた。

ヤ 「この本にも輸液のことはちょくちょく出てくるよ。しかもけっこう大事なことが。」

研 「えっ、でも索引には載ってないですよ。」

ヤ 「まあね、でも基本的に『輸液』って索引には出てこないことが多いよ。たとえば、感染症の教科書の索引に『抗生剤』って項目があると思う?」

研 「あっ……まあ、ないでしょうね。抗生剤なんて、あらゆる細菌感染症の項目に出てくるでしょうし、いちいち索引に載せていたらきりがないですよね。」

ヤ 「そうだね。輸液ってのはそういう単語だと思う。それと……うーん、なんて言ったらいいかな、輸液のことを勉強したいと先生が思っているのはよく伝わったよ。けどねえ、輸液って、本来は単発の知識として覚えるものじゃなく、流れの中で、文脈の一部として知っておくべきものだと思うなあ。」

研 「なんかよくわかりませんけれど、とりあえず知りたいことを索引で調べてみただけなんで、あまりそう硬いこと言わないでください(笑)」

ヤ 「そうか(笑)」

とまあその場では笑って終わらせたのだが、その後、本書の索引をみながら、私は考えた。

「文中のコンテンツ名、キーワード、固有名詞を並べ替えた『巻末索引』って、医学書を辞書的に使うときにはすごく便利だけど、医学書を通読して文脈ごと捕まえようとする読み方のときにはあまり役に立たないんだよなあ……。それこそ、研修医が本書の索引をみて、項目だけを見つけてクローズアップしたところで、本書のうまみみたいなものはイマイチ発揮されない気がする」

そして、ふと思い付いた。

「通読型の医学書には、辞書型の医学書とは違った索引を載せてもいいのではないか?」

「コンテンツだけを五十音順にならべるのではなく、もっと、文脈を意識した索引があってもいいのではないか……?」

……ここまでくると悪ノリである。すばらしい先生が作った医学書の索引に茶々を入れているのだから。

そもそも、医学書の使い方なんて人それぞれでいい、私が通読型だと思った本を、誰かが断片的に拾い読みしても一切悪いことはない。バイヤールだって千葉雅也だって、読書は自由でいい、なんなら読まずに積んでおくだけでもそれは読書だ、と言っていた。本書が通読型の医学書だと思っているのはあくまで私の勝手な認識に過ぎず、ほかの読者が、やれ輸液はどこに載っている、やれ糖尿病はどこに書いてあると、辞書を引くように強拡大のつまみ食いで本書を読もうとも、何の悪いことがあろうか。

いったんはそうやって引き下がろうかと思った私だが、しかし、こう考え直した。たとえば読書人の中には、本の中に自分の思いつきをどんどん書き込みながら読んでいくタイプの人がいる。それもまた読書の一型であろう。ならばいっそ、「通読型の読書のために、索引を自分用に書き換える」というのもオツではないか……。

私のここまでの話を聞いて、あきれた顔をしたのは羊土社のスーさんだ。

「ヤンデル先生、まさかとは思いますが、医学書の索引を、勝手に作り替えちゃおう、なんて無謀な企画をお考えではないですよね?」

実際にはSlackの会議だったので表情は見えなかったが、たぶん相当困惑していたはずである。私はスーさんのリアクションが気に入って、企画をもう少し盛ることにした。

「そのまさか、というか、これ、レジデントノートの連載でやりませんか? 毎回ぼくが医学書を一冊通読して、索引を勝手に作り替えちゃう、という……。ゾクゾクしますよこれは」

「だ、だ、だめです! そうそうたる著者におこられる! ぜったいだめ!」

こうして無事、羊土社をあげての了承が得られた。単発企画かと思ったら毎月やってもよいという。ノリノリだなあ。さっそく私は、巨匠・田中竜馬先生の本にがしがしと蛍光ペンを引きまくり、「オレがかんがえたさいきょうの索引」を作成し始めたのである。

本連載に続く

著者プロフィール

市原 真(Shin Ichihara)
JA北海道厚生連 札幌厚生病院病理診断科 主任部長
twitter:
@Dr_yandel
略  歴:
2003年 北海道大学医学部卒業,2007年3月 北海道大学大学院医学研究科 分子細胞病理学博士課程修了・医学博士
所属学会:
日本病理学会(病理専門医,病理専門医研修指導医,学術評議員・社会への情報発信委員会委員),日本臨床細胞学会(細胞診専門医),日本臨床検査医学会(臨床検査管理医),日本超音波医学会(キャリア支援・ダイバーシティ推進委員会WG),日本デジタルパソロジー研究会(広報委員長)