概論
特集1 概論
がんとエマージェント相転移:がんの難問を解くための道標
How cancer cells exploit emergent phase transition?
鈴木 洋
Hiroshi I. Suzuki:名古屋大学大学院医学系研究科分子腫瘍学
がん細胞は顔(面相)を変える.そして,われわれの手をすり抜けていく.がんのゲノム異常の全体像が明らかになり,ゲノム医療・免疫療法が大きく発展してきた一方で,がんと治療のいたちごっこは依然未解決の難問でもある.そのなかで生命科学のさまざまな分野で注目されている相分離は,がんでも多様な異常を呈することがわかってきた.本特集は,「新しい分子生物学・生化学・生物物理学」の分野として成長してきた相分離研究の最前線を概観するとともに,相分離という視点からがん研究の難問に挑むさまざまな研究を紹介し新たな研究の潮流を探る.特に,生体分子凝集体を介した新しい生物学的機能の創出に注目し,「エマージェント相転移」という言葉のもと議論することで,がんの生命力を理解し制御するための一助としたい.
はじめに
われわれの体を構成する細胞のなかには,「膜をもたない」「多くの分子が集まった」構造体が多く存在し,このような構造体の形成原理として液-液相分離(liquid-liquid phase separation:LLPS)が注目されてきた.相分離の関与が考えられる多彩な非膜性構造体は生体分子凝集体(biomolecular condensate)と総称され,シグナル伝達,遺伝子制御,オートファジーなどの多様な生理機能に関与している1).実験医学では,2019年6月号「細胞内の相分離」,2021年増刊号「相分離 メカニズムと疾患」,2024年8月号「ストレス応答と相分離」で特集が組まれてきた.近年,がんで,相分離・生体分子凝集体の多様な異常がみられることがわかってきた2)〜4).本特集は,「新しい分子生物学・生化学・生物物理学」の分野として成長してきた相分離研究の最前線を概観するとともに,相分離という視点からがん研究の難問に挑むさまざまな研究を紹介し新たな研究の潮流を探る(概念図).
1がんと相分離・生体分子凝集体研究
❶ 相分離研究2.0〜細胞内相分離の基盤理論と新しいアプローチ〜
生命科学における相分離・凝集体研究は,2009年のHyman,Brangwynneらによる線虫の生殖顆粒(P顆粒)のライブイメージング解析と生物物理学的解析を起点として大きく発展した5).続いて,核小体で同様の解析がなされるとともに,McKnight,加藤,Rosenらによってタンパク質がin vitroで液滴やゲル状の構造をとることが示され6)7),「液-液相分離が多様な非膜性構造体の形成に関与している」という概念が確立されてゆく.(液-液)相分離とは,相転移現象の一種である.生体内の凝集体形成において鍵となるメカニズムは生体分子間の弱い多価相互作用(multivalent interaction)である.タンパク質の場合は,多くのタンパク質がもつ低複雑度ドメイン(天然変性領域)が多価相互作用の主役となる1).DNA・RNAも複雑度が低い分子であり(構成要素は4種類),重要な役割を果たす.このように相分離研究は,「細胞内の構造体のイメージング解析」と「生体分子の性質の研究」に「物理学」が融合して誕生したものといえるだろう.本特集では,まず,相分離・凝集体研究の物理学的基盤・液滴操作技術の最前線を紹介する(赤松・下林の稿)8).
❷ スーパーエンハンサーと転写凝集体〜新たな研究フェーズ〜
正常細胞やがん細胞のアイデンティティー(それぞれの細胞特有の遺伝子発現プロファイル)を規定するスーパーエンハンサーの研究は,当初,マスター転写因子などのChIP-seqデータの再解析から提案された概念であった.その後,機能解析が深まるにつれて,スーパーエンハンサー近傍でメディエーター・RNAポリメラーゼⅡ・転写因子などが天然変性領域を利用して凝集体を形成するという特有の構造体・メカニズムを意識した研究の肉付けが進む.凝集体はただ集まっているだけなのか,それとも,その形成は遺伝子制御において何か意味(メリット)があるのか.最近の研究によりスーパーエンハンサー(DNA)・エンハンサーRNA(RNA)・転写制御因子(タンパク質)のクロストークが転写バーストのユニークな制御を行っていることが明らかになってきた(尾上の稿)9).さらに,スーパーエンハンサーを2013年に提唱したYoungらのグループは最近,生体分子凝集体の病的意義を探索する過程で,タンパク質の運動性の低下をProteolethargyと名付け,Proteolethargyが疾患に関係しているという新しい概念を提案している(DallʼAgneseらの稿)10).
❸ 多価相互作用の分子グラマーを理解する
タンパク質の研究は,精緻な構造をとる構造ドメインの研究を中心として発展してきた.言い換えると,構造ドメインではない天然変性領域の体系的な分類・理解はまだまだ発展途上にあり,天然変性領域,および,多価相互作用の総論・各論をどのように構築するのかというプロセスが重要となる.がんにおける多様な相分離の異常は,おそらく,Weinbergらによるがんのホールマークのさまざまな,あるいは,すべての側面と関係しているであろう.本特集では,転写凝集体以外に,がん細胞の大きな特徴である「染色体不安定性」「細胞周期の異常」における分子集合・多価相互作用のロジックの最前線を紹介する.多くのがん細胞は,染色体分配を高頻度に失敗するが,この背景には,正確な動原体-微小管結合を誘導するAurora Bキナーゼの機能低下が関与している.松井・野澤の稿では,Aurora Bの活性を制御する反応場の分子ロジックを解説していただく.猪瀬・吉村の稿では,翻訳後修飾を介した凝集体の制御ロジック,細胞周期やがんの増殖マーカーとしてよく知られるKi-67と相分離の関係などを解説していただく11).
❹ がんにおける非膜性構造体の異常
正常細胞では非膜性構造体の形成・解体が精密に制御され,ストレス応答や細胞質・核内構造が適切に調節されている.一方で,がん細胞は,凝集体の性質を自由自在に変える,あるいは,正常細胞ではみられないような新たな凝集体をつくることで,自身の生き延びる力や,がん治療において最大の障壁となる薬剤耐性の獲得に悪用している可能性が高い.古くから,がん細胞では核小体が肥大化する現象が知られており,これは高いリボソーム産生能と増殖能の指標とされてきた.また,EWS-FLI1のような転写に関係するキメラ遺伝子やEML4-ALKのようなシグナル伝達に関係するキメラ遺伝子も異常な凝集体の形成を引き起こす2)〜4).本特集では核小体,パラスペックル,核スペックル,ストレス顆粒,PML核小体などのがんにおけるさまざまな非膜性構造体の異常を概観する(山本・合山の稿).
❺ 染色体外DNA(ecDNA)〜がんの不均一性を駆動する新たな力〜
最後に,本特集では,がんの新たなゲノム異常である染色体外DNA(extrachromosomal DNA:ecDNA)を取り上げる(芳野の稿).ecDNAは,染色体からエンハンサーやがん遺伝子が飛び出して増幅した環状DNAである12).がん遺伝子を強力に転写活性化するが,その際に,しばしば,核内でecDNAの凝集体(ecDNAハブ)を形成し,相分離研究とリンクする.ecDNAは,染色体とは異なり娘細胞に非対称性に分配されることから,直接的に腫瘍内の遺伝的不均一性を駆動する.このような動的な性質は,治療中の細胞クローンの動的な変化を引き起こし,治療抵抗性の獲得とがんの進化を考えるうえで重要である.
2エマージェント相転移―エマージェント多価相互作用とエマージェントな機能性を理解する
本稿の後半では,「エマージェント相転移」という新しい造語を用いて,相分離・凝集体研究の今後の方向性,そして,がん研究とのクロストークを議論する.「エマージェント(emergent)」は,物理学や相分離・凝集体研究でしばしば使われる形容詞である(日本語としては「創発的」が当てはまる).定義としては,要素が集まったときに,個々の要素のふるまいでは説明できないような,新しい・思いがけないふるまいを呈する様を指す.「エマージェント相転移」とは,「凝集体形成を調節するエマージェントな多価相互作用」がいかに既知の凝集体を変化させ・新たな凝集体をつくり,そして,「エマージェントな機能性」を発揮するか,という話題である(特にがんにおいて)(図).
❶ 液-液相分離で説明できること・できないこと
相分離研究の論文でよく出てくる「in vitroの液滴アッセイ」と「細胞内の構造体のイメージング」の結果は即座に同等と扱っていいのだろうか.細胞質の凝集体に比べて,核内の凝集体はクロマチンが混み合った環境内で形成されるために,in vitroのような球形(円形)とはならないことが多い.そのため生体内では理論の調整が必要となる.例えば,細胞内の凝集体が必ずしも液状であるとは限らず,正常な状態で固体状で機能する凝集体も報告されてきている13).相分離の過程は,熱力学的には,分子が集合したときのエンタルピー的利得とエントロピー的損失のバランスでおおまかに説明できる(赤松・下林の稿).エンタルピー的利得(エンタルピー変化)が多価相互作用に対応する.理論の調整において,エントロピー変化をもたらす枯渇相互作用(depletion effect),ミクロな膜閉じ込め作用(microphase separation),ぬれ(wetting)・界面効果などを考慮する必要があるだろう.松井・野澤の稿では,さまざまな実験系の知見を統合し,単純に相分離と片付けずに細胞内の現象を丁寧に紐解く過程が詳述されている.また,RNAの転写・分解・移動が複雑に関係する系では,分子の拡散(diffusion)だけではなく移流(advection)や対流(convection)も考慮する必要があるだろう(尾上の稿).
❷ エマージェントな多価相互作用
多価相互作用の理解には,しばしばsticker and spacerモデルが使用される(図A)14).液滴形成を駆動するタンパク質と,それらと複合体を形成するタンパク質には,それぞれスキャフォールド(scaffold)・クライエント(client)という用語が使用される1).それでは多価相互作用の度合い・強弱はどのように調節されうるのだろうか.まず,最もシンプルなシナリオは,タンパク質あるいは核酸の配列自体が固有の多価相互作用しやすさを規定しているという場合である(intrinsic multivalency).一方で,各分子の多価相互作用しやすさが動的・不均一であり,構造体の形成の過程でも逐次変わっていくシナリオはどうか.このような相互作用は,エマージェントな多価相互作用(emergent multivalency)と称される15)16).具体的な例としては,あるタンパク質分子1つでは多価相互作用できないが,同じ分子が多量体化または重合すると,多価相互作用できるようになる場合があげられる(図B).この場合には,多量体化または重合の程度により,多価相互作用しやすさの程度が連続的あるいは不均一になり,その挙動の予測が難しくなる.また,タンパク質のリン酸化などの翻訳後修飾も多価相互作用しやすさを動的に変化させる要因となる.このとき,細胞膜における受容体やシグナル伝達分子の集合はエマージェントな多価相互作用として捉えることができるが,これを考慮するうえで対応する物理学においても理論の調整が必要となる.例えば,分子と分子のつながり(ネットワーク)が次の時間単位における相・ネットワークの挙動に影響することになり,液-液相分離に対して,ネットワーク構造の変化(パーコレーション転移:percolation)を考慮する必要が出てくる15)16).ソフトマター・アクティブマター特有の相分離の現象である粘弾性相分離や運動性誘起相分離は実験医学2019年6月号の田中の稿で紹介されている.本特集で紹介しているがん細胞特有のキメラ型転写因子(赤松・下林の稿,尾上の稿)や染色体外DNA(芳野の稿)はがんが自然の環境下(natural experiment)で獲得したエマージェントな多価相互作用の一例といえるし17),CDKなどのキナーゼの標的配列が構造ドメインよりもむしろ天然変性領域に多いという事実はエマージェントな多価相互作用の重要性を物語っている(猪瀬・吉村の稿).
❸ エマージェントな機能性〜凝集体の意味論〜
前述のとおり相分離研究は,形(凝集体)を物理学で理解することで発展してきたといえる.一方で,観察された・モデル化された形がどのような生物学的意味をもつかについては,個別の研究に依存している.凝集体の意味論として,一般的に,「一連の複雑な生化学反応を実施する場」「分子を隔離する場」「多様な分子・配列をひとまとめにする場」という説明がよくされる.しかし,これらは既知の状況に凝集体を当てはめて説明しやすくしているだけであるとも言え,新たな凝集体が発動するエマージェントな機能性を予測・推定する枠組みの構築には至っていない(図C).例えば,キメラ型転写因子について,なぜその組合わせががん細胞にとってちょうどよかったのかは説明困難であるし,薬剤と凝集体の関係も同様である.遺伝子制御に焦点をおくと,RNAを介した転写凝集体の制御は,ゲノム情報が均一な集団において,転写バーストの同調性を介して,細胞間の遺伝子発現の不均一性を制御するというエマージェントな機能性を発揮する(尾上の稿).そのような前提条件下で,がん細胞は,ecDNAという直接的な不均一性のドライバーを利用して,さらに多様性を生み出している(芳野の稿).このような凝集体のエマージェントな機能性を,がん細胞の凝集体の異常の全体像(山本・合山の稿)と合わせて理解することが,がんの機能を封じ込めるための治療開発にとって本質的に重要であろう.
おわりに
がんゲノム解析の飛躍的な進展,分子標的治療の洗練,そして,がん免疫療法の登場により,がん治療は大きく発展した.一方で,がんの多様性・治療耐性など,すなわち,「がんのしたたかさ・しなやかさ」を生み出す分子機構の理解は立ち遅れており,新たながんの基礎研究のビルドアップが期待されている.がんのホールマークに代表されるように,正常細胞とがん細胞はどう性質が違うのか,その性質の違いを引き起こす分子の異常は何か,というアプローチはがん研究において中心的であり,がん細胞を特異的に治療で攻撃するために至極真っ当なものである.一方で,例えばゲノム解析で同定された1つあるいは複数のゲノムの異常(分子の異常)が,細胞機能にどのような性質の変化を引き起こして,それらの変化が治療に対する応答性とどう関係しているか,を理解するためのいわば逆向きのアプローチは発展途上であり,「エマージェント相転移」という議論はそのための1つの提案でもある.分子から機能へ,分子から意味へ,この道には明確な解き方が1つだけ存在するのではないだろう.ここで,相分離研究は,がんでみられる多様な分子の異常を「1分子―1機能」「1分子異常―1機能異常」から離れて再度捉え直す視座を与えてくれることに気づく.このような基礎研究の試行錯誤を通じて,がん細胞の進化の軌跡の理解が進み,治療に対するがん細胞の次の進化の一手を先回りするような革新的な戦略が創出されることに期待したい.
文献
- Banani SF, et al:Nat Rev Mol Cell Biol, 18:285-298, doi:10.1038/nrm.2017.7(2017)
- Boija A, et al:Cancer Cell, 39:174-192, doi:10.1016/j.ccell.2020.12.003(2021)
- Suzuki HI & Onimaru K:Cancer Sci, 113:382-391, doi:10.1111/cas.15232(2022)
- Mehta S & Zhang J:Nat Rev Cancer, 22:239-252, doi:10.1038/s41568-022-00444-7(2022)
- Brangwynne CP, et al:Science, 324:1729-1732, doi:10.1126/science.1172046(2009)
- Kato M, et al:Cell, 149:753-767, doi:10.1016/j.cell.2012.04.017(2012)
- Li P, et al:Nature, 483:336-340, doi:10.1038/nature10879(2012)
- Yanagawa M & Shimobayashi SF:J Biochem, 175:179-186, doi:10.1093/jb/mvad095(2024)
- Ogami K, et al:bioRxiv, doi:10.1101/2025.06.06.658161(2025)
- Dall'Agnese A, et al:Cell, 188:207-221.e30, doi:10.1016/j.cell.2024.10.051(2025)
- Yamazaki H, et al:Nat Cell Biol, 24:625-632, doi:10.1038/s41556-022-00903-1(2022)
- Yi E, et al:Nat Rev Genet, 23:760-771, doi:10.1038/s41576-022-00521-5(2022)
- Guo P, et al:Science, 385:eadf4478, doi:10.1126/science.adf4478(2024)
- Martin EW, et al:Science, 367:694-699, doi:10.1126/science.aaw8653(2020)
- Choi JM, et al:Annu Rev Biophys, 49:107-133, doi:10.1146/annurev-biophys-121219-081629(2020)
- Mittag T & Pappu RV:Mol Cell, 82:2201-2214, doi:10.1016/j.molcel.2022.05.018(2022)
- Lyons H, et al:Cell, doi:10.1016/j.cell.2025.04.002(2025)
本記事のDOI:10.18958/7783-00001-0006107-00
著者プロフィール
鈴木 洋:2004年東京大学医学部卒業.3年間の臨床研修を経て,’10年東京大学大学院医学系研究科博士課程修了.’14年より6年間,マサチューセッツ工科大学コークがん総合研究所(Phillip A. Sharp研究室).’20年より現所属(名古屋大学大学院医学系研究科分子腫瘍学),’24年よりInaRIS(稲盛科学研究機構)フェロー.ゲノムとRNAの作動原理の理解をアップデートし,その精度の高い理解に基づいて,がんの新たな治療法を見出すことをめざしている.大学院生・研究スタッフ募集中.新しい考え方を創ることに興味がある方はお気軽にご連絡ください.




















