「Mothball」とは直訳すると「蛾のボール」ですが,これはタンスや倉庫において衣類を害虫から守る「防虫剤」のことです.家庭用防虫剤には従来,パラジクロルベンゼン,ナフタレン,樟脳しょうのうの3種類の成分が使われてきました.私が子どものころは,タンスを開けると防虫剤の独特のニオイがして,今でもあのニオイを嗅ぐと懐かしいおばあちゃんの着物のニオイを思い出します.最近は,ピレスロイドを基本にしたシート状の防虫剤が一般的で,これはほぼ無臭です.
防虫剤市場の多くを占めるパラジクロルベンゼンやピレスロイドは比較的毒性が低いですが,ナフタレンや樟脳は成人では2〜3 gで中毒症状を引き起こし,5 gを超えると生命が危険といわれています1).私は樟脳とナフタレンは同じものかと思っていましたが,まったく別物です.樟脳が天然の木(クスノキ)から抽出されるのに対し,ナフタレンは主に石油や石炭の精製過程で得られる化学的に合成されたものだそうです.ナフタレンも樟脳も固体が気化していく過程で効果を発揮します.ナフタレンの方が刺激的なニオイが強く,気化するスピードが遅いので効果が長持ちします.五月人形や雛人形などの長期保管にはナフタレンが適しているといわれており,着物には天然の樟脳を使う人が今でも多くおられます.
防虫剤は高齢者や乳幼児による誤飲が問題となることがあり,特に認知症がある高齢者は薬や食べ物と間違えて経口摂取されるので,摂取量が多く重篤になることがあります.ナフタレンはチトクロームP450で代謝され,ナフトールなどの強い毒性をもつ物質に変わります.これらはヘモグロビンのなかにある鉄を2価から3価に酸化させてメトヘモグロビン血症を引き起こし,さらに赤血球を破壊して溶血による急性腎障害の原因になり,人工透析が必要になることもあります2,3).
これらの防虫剤は,あくまで虫が嫌いなニオイで寄りつかないようにするためのものであり,殺虫剤ではありません.樟脳は東南アジアではコウモリを追い払うのに使われることもあるようです.私が登山で使う虫除けスプレーも殺虫剤ではないので,使っても顔の周りをぶんぶん飛んでくることがありますが,きっと虫たちは「くさい!」と思って飛び回っているのだと思います.
ちなみに,樟脳の「樟」は「くすのき」とも読みます.一般的には「楠」を使いますが,成分や香りに着目する文脈では「樟」を使うそうです.