臨床の現場では,患者さんの診療から生じる疑問がいくつもあり,それを科学で解明するためにわれわれは医学研究をします.私はどちらかというと,生体を用いた個体レベルの研究を多く行ってきましたが,細胞培養研究は再現性が高く,新薬や治療法のスクリーニング,あるいはメカニズムを探求する最初のステップとして優れた方法です.細胞培養は,きちんと育てないと細胞が死んでしまったり細菌が生えたりしますが,これまで世界で最も有名で多く使われてきたのは「HeLa(ヒーラ)細胞」という細胞株でしょう.私もHeLa細胞を使ったことがありますが,培養が比較的容易で強い増殖力を有し,ポリオワクチンの開発や,がん,遺伝子に関する研究に使われてきました1).
この細胞は,1951年に米国ボルチモアの病院に子宮頸がんで入院していたHenrietta Lacks(ヘンリエッタ・ラックス)というアフリカ系女性の腫瘍がオリジナルであり,彼女の名前にちなんでHeLa細胞と命名されています.しかし,ヘンリエッタ本人もその家族も,細胞が研究に使われることについて病院からは何の説明も受けておらず,当然同意もしていませんでした.その後,細胞は商品化され,莫大な医学的成果と商業利益を生んだのですが,遺族には一切知らされず,その利益が分配されることも長らくありませんでした.ヘンリエッタの娘をとり巻く弁護士や詐欺師,ジャーナリストたちの一連のストーリーは,2017年に「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」というベストセラー本になり,映画化もされています.映画のなかでヘンリエッタの娘がHeLa細胞を培養したシャーレを顕微鏡で見て「なんて美しい」というシーンは,亡き母親との再会でもあり感動的です2).
当時は,人種差別などさまざまな時代背景も関係したのか,インフォームド・コンセントはとられませんでした.現在,HeLa細胞の遺伝子情報は世界中で共有されていますが,それは単なる「細胞素材」ではなく,一人の人間のアイデンティティの断片であるといえます.
われわれ医師の研究は患者さんの検体や画像をもとに行われることが多いです.HeLa細胞にまつわる歴史を教訓にし,個人情報の保護はもちろん,医学研究に貢献してくださった患者さんに対する敬意と感謝の気持ちを決して忘れないようにしたいものです.