自分の経験も含めて,キャリアをうまく歩けないと感じているときは,同時に自分のなかにちびっちょ(その定義は連載第2回)が住んでいる.もちろんそれは,あなたが直接の原因ではなくて,自分の周囲にいるちびっちょ達のせいかもしれない.また例外的に,運が悪く,あなたにとって有害な人間が周りにいるかもしれない.そういう状況に至ったら,その有害な人間が自分よりシニアであれジュニアであれ気づいた時点で逃げて欲しい.アカデミアにはあなたが本当に危険な状況にいると判断して助けてくれる大人はたくさんいる.でも,あなたがちびっちょだと感じる大人とあなたが対峙しているときに手を差し伸べられる大人はたくさんいない.いずれの場合も積極的にだれかに相談することが大切であるのは変わりない.第1回でも書いたように,社会と同じようにアカデミアでも機会を求めるあらゆる場面に必ずあなたがコミュニケーションをとらなくてはいけない相手がいる.面接官だったり,自分の指導教員だったり,指導学生だったり,レビュアーだったりする.そういった多くの人は尊敬できる素晴らしい人物であろうが,ちびっちょももちろん混じる.あなたがその時々にできるのは,謙虚に自分の位置を知り,自分のやりたいこと(ビジョン)を明らかにし,自分のビジョンと精神を侵害しない範囲で,相手が求めることと自分が求めることを同時に満たそうとするということである.また相手がそういった姿勢にあるときに常に自分が搾取する側でなくできる限り与える側に回れているか確認し続ける.また新しい場所に移りたいと思うときにできるだけ多い選択肢のなかから選べるように,自分自身の能力を最大限そのときできる範囲で上げておくことも大切である.相手がちびっちょの場合は,自分が放つ光でそのことに暗に気づいてもらって,その人のなかのちびっちょに消えてもらうこともできる.
最近は(時代もあって)特にこの手のアドバイスを先輩が後輩に伝えることがはばかれるようになってきた.しかし,アカデミアにおいて他人や他人の仕事を評価する立場にある人たちがどうあるべきか,機会を得ようとする人がどうふるまうと成功できるかということについて,どんなキャリア段階の人にも役立つように,私が信じることを丁寧に書いてみたいと思う.それでも,今少し元気がなくて,ちょっと書いてあることを信じたり,constructive(建設的)に受け止められそうにないなと思う方は,今回はここで思い切って読み飛ばしてもらっても構わない.今回と次回は少し読むのに元気の必要な内容かもしれない.
世界のランドスケープを知り,山を登る
なぜ子どもが勉強し,教養を身に付けた方が良いかと言えば,それはこの世界で起こるさまざまな事象のつながりを知り,社会,生活,仕事のなかでさまざまなことのなかに容易に面白さを発見したり,問題事であっても好奇心をもって対峙して自分によい状況をつくったり,コンロールしたりする力を身に付けるためである.このことは,特定の研究分野を深く研究する,大学院生や研究者になっても変わらない.ある山に登りたいと思って頂上を見つめてもそれだけでは登ることはできない.まず自分は今何者で,どこに立っているか見つめ,頂上に至る道はどこで,そこに何があり,どういう準備をしないといけないのか知れないと登れない.ちびっちょは機会だけを求め,自分の状況が不幸なことを嘆き,それを他人のせいにする.自分は今袋小路にはまっていると信じ,周囲や自分に影響のある人間がちびっちょであると言う.「そんな未来が見えたはずはない」と,その状況がつくられる前にそこに至る選択をした自分は悪くないと言う.(もちろん本人に非がなく,このような責を負う筋合いのないケースもあるが,ここで私が言うちびっちょがどのようなものか想像していただきたい.)
SNSを見れば,日本の研究者の雇用をめぐる議論が流れてくる.私の目に入る多くはどうも悲観調で,「ポストがない」「研究者は食べていけない」といったような声が多い.しかし,高齢化社会の日本では若手は売り手市場に切り替わりつつあるし,各研究機関は優秀な若手を躍起になって探し,見つからないことを嘆いている.世界的にも売り手市場で,企業での需要も高く,ポスドクやファカルティのポジションも,さまざまな国に多様な形で存在している.もちろん,日本での就職活動で断られることが続き,心が折れそうになっている人に鞭打つつもりはない.それでも,究極的に大切な考え方は,自分を「必要ない」と判断した組織に,仮に自分がなんとか所属できたとしても,自分が幸せにはなれることはないという考え方だと思う.世界に目を向ければ,さまざまなジョブオポチュニティがある.もちろん家庭などの事情があってそれが許されない方々はいるのは承知しているし,世界のアカデミアがそういった機会の不均等をさらに是正させる必要はあるが,可能な方は積極的に世界にも目を向けてみて欲しい.人間がその半生で経験できることには限りがあり,多くの人は「見えている範囲」でしか選択を下せていない.だからこそ,「見えていないだけで,他の可能性は存在する」ということを知っておくのが大切だ.リスクは,思っているほど大きくなく,勇気を出して一歩踏み出したからといって,人生が破滅することはほとんどない.
「頑張って成果を出せば報われる」という考え方もよくないと思う.「自分はNatureに筆頭著者で論文を発表したのにPIのポジションが得られない」と嘆いている人を雇いたい研究機関は稀だと思う.PIの役割には研究成果を上げるだけではなく実に多様なスキルが求めらるのにもかかわらず,このように嘆く人に出会うことは珍しくない.特に日本の場合は受験産業における過当競争のなかで,「頑張れば,成果が出て,成果が出れば必ず報酬が与えられる」というモデルが子どもの頃から染み付いている人が多い.しかしながら,新しく大学院生に来て欲しい研究室も,新しいPIを雇用したいと思う研究機関も大抵の場合,ビジョンをもって運営されており,これまで成果を出してきたことは当然として,その上でこういう人に来て欲しいというのが大なり小なりある.相手の正体を知り,相手が何を求めていて,それを自分が与えられるか考えずに,闇雲に機会を求めてもチャンスは小さい.私の綺麗事かもしれないが,自分をそういう観点で選ばなかった組織哲学もない場所に仮に上手いこと所属したとしても,その後正当に評価されて幸せになれるとは思えない.丁寧に時間をかけて自分を必要とする組織を探し,そのような組織のビジョンを学ぶことで自分のキャリアと研究のビジョンをさらにブラッシュアップしていくのが正攻法である.また後編で改めて触れるが,研究組織のエネルギーは人体のように連結している双方向のロイヤリティ(loyalty)とそれに基づいた哲学と研究の共有と協働とそれらの代謝だと思う.
私たちの研究とキャリアは世界の政治,国家戦略,グラント配分機関や所属機関のマルチスケールの意志なかにある.子どもが世界を知っていくように,こういうことをさらに勉強しながら,そのなかに自分を置き,自分のサイエンスとキャリアを考えてどのように山を登れるか考えられるようになることはよいことだと思う.周りの都合が自分の都合に合うこともあれば,合わないこともあると思うし,日々の研究には直結しないかもしれない.しかし自分と自分の研究がかかわる世界のランドスケープの広がりを学んで悪いことだけはない.
研究室を移るときの良いメール
大学院進学やポスドクになるタイミングで研究室を移ってみたいと考えている人は少なくないと思う.特に欧米ではこれがスタンダートであり,逆に進学のタイミングで研究室を移らない人を評価しない.なぜなら,将来研究の外の世界に出るにしても,特定の分野を研究することになるにしても,多様な環境で分野横断的に知識を深めておくことが必要で,人材がどんどん循環する社会がよいとするからである.これらはすべて正しいとは限らないが,日本では一つの研究分野を深く探求できる一方で,自分が見える地平を広げる機会を犠牲しているという側面はある.また,人間心理は常に自分の今いる場所を安全だと思いたいので,移動することへの心理的抵抗もある.PIの側にも,優秀だったり,長く経験を積んで研究室のさまざまなことに慣れた人材が失われることへの恐怖心はある.でもこれは大抵の場合間違いである,特に研究室の人材循環がよくなれば,活躍した人材が抜けると,なぜか思わぬ人材が活躍しはじめたり,新しい人材が来てくれたりする経験をする人は多いはずである.
さて,ここで新しい人材に来て欲しいPIの心理について知っておいて欲しいし,今PIの人には私が同僚と共有している次のやり方が役立つかもしれない.北米の他の研究室の例に漏れず,私の研究室にも多い時期になると月50件以上の応募や問い合わせのメールがさまざまなキャリアステージの人たちからくる.メールの本文に加えて,CVと成績表,時には応募者本人が昔に発表した論文が添付されていることがあるが,当然をこれらをすべて精査して評価する時間などないし,うんざりさえする.なぜなら,ほとんどのメールが他の研究室にも同じにものを送っているspamのようなコピペと見てとれるからである.さらに,ひどいことに,ある割合で“Dear Professor”や“Dear Sir/Madam”ではじまるものが入り込んでくる.そういうメールに限って,(聞いたこともないジャーナルに)こういう論文を出した,自分はこういうスキルをもっている,自分は学生時代によい成績を治めたということが中心に書いてあり,1週間後とかに「メールを読んでくれたか?」「結果はどうなっているか?」という問い合わせのメールが来る.まともに忙しい研究者はそういったメールに興味を示せることはないし,一つひとつに返信できる余裕はないと思う.逆に,「あなたの論文を読んで興味をもった」「私はこういう研究をこれまでしてきたので,こういうふうにあなたの研究と組合わせてみたい」というような科学的興奮は好奇心を共有できることが書いてある応募はつまらない応募のなかで光って見える.私はこういうことが書いてあるメールはきちんと精査して,返事をする.応募者が貴重な時間を割いてこちら側のことを勉強してくれたことがわかるからである.そのうえで,成績がよかったり,業績や経験がきちんと見てとれる人には会って話してみたくなる.
上のように応募書類を読むかどうか決めていても,メールの文章は読まなくてはいけないので私はブリティッシュコロンビア大学で同僚のCarl de Boerを真似てもう一つトリックを加えている.アメリカの有名ハードロックバンド「ヴァン・ヘイレン」はコンサートの契約書に「楽屋にボウル入りのM&M’sを置くこと」,さらに別の箇所に「茶色のM&M’sはすべて除いておくこと」と一見,意味のなさそうな条項を入れていたらしい.しかし,これは当日楽屋で,興行主が契約書をちゃんと読んだか(誠実か)を即座に判定できる,という工夫であった.Carlはこれを真似て,自分のウェブサイトでプロフィールとメールアドレス(本気で志望する人ならまず見落とすことはない部分)とともに「研究室に応募するときはメールの件名にM&Msと入れるように」と指示している.私はこれを聞いて以来,自分の研究室の場合は「メールの件名にNarutoと入れるように」としはじめて,メールアプリの検索機能を使って圧倒的に楽に自分が読みたい応募書類をフィルタリングできるようになった.さらに,私は応募者に興味をもった場合は,準備してある10程度の質問と各1〜2行で答えて欲しい旨の文章をメモ帳からコピペして返信して,反応を見るようにしている.
学生と話していると応募者の心理ももちろんわかる.一人のPIが50件の応募から1つを選ぶということは,オッズ的には自分達はそれ以上の応募を出さないと次の行き先を見つけられなさそうに見える.しかし,本当に成功する期待値を上げる方法は絨毯爆撃をするように応募書類を送るというものであろうか?一つの憧れる研究室を見つけて,そこの研究室の論文を読み込み,いかに自分がそこに行きたいか訴えたときであろうか?(もちろん,そうやって応募してもその研究室の資金的な状況を含めて成功に至らないこともあると思う.)このことは,国内でポスドクのポストを探すときや,PIのポジションを得ようとさまざまな研究機関に応募書類を準備するときも同じであると思う.
CVは初学者のうちから作りはじめる
アカデミアではキャリアを次のステージに進めるときにCV(curriculum vitae)が必ず必要になるし,CVは常に研究者の人生についてまわる.CVは一般的な経歴や経験を羅列した2〜3ページ程度の履歴書(resume)とは異なり,アカデミアでの経験を詳細にまとめておいた書類になる.ラテン語で「人生の経路」という意味らしい.基本的には自由フォーマットだが,テンプレートに沿って情報を提供することが求められることもあれば,応募先によってはページ制限が5ページや25ページと決まっていることもある(当然学生の場合はそんな分量にならないのだが).常に情報を更新してメンテナンスしたCVを手元にもっておき,求められたときに,そのまま提出できたり,そこから最新の情報を抜き出せるようにしておく必要がある.CVには二つの意味がある.一つ目は,研究者としての自分の情報を他人に伝えるためのツールであるということ.二つ目は,自分が現在の自分を客観的に評価するとともに,主観的に自分の達成を感じるためのツールであるということである.
CVのフォーマット
CVには通常次なような項目をまとめておく(太字は特に重要な項目,*は非学生のみ,斜体はキャリアを上がるごとに削除しても良いと思われるもの):まず冒頭に,name,title,afiliation,contact information(名前,職位,所属,連絡先)を記し,その後は順不同で,area of expertie(専門分野),honors(特筆すべき栄誉),education(学歴),*position held(職歴),other awards(その他の受賞),fellowship(フェローシップ),*other positions held(その他の職),publications(論文),talks(口頭発表),patents(知財リスト),poster presentations(ポスター発表),*teaching(授業歴),*supervision(指導歴),*books(教科書の執筆リスト),funding(研究費獲得歴),skills(スキル),academic servise(アカデミアにおける貢献),peer-reviewer contributions(論文・研究費査読歴),other servise(ボランティアや学外活動などその他の貢献)などを書く.
参考までに,私のCVの短縮版はhttps://yachie-lab.org/pdf/short-Nozomu-Yachie-CV4.pdfから見れるようになっている.これでも10ページを超えているが,大学内での昇進で使ったものや,その他のリーダーシップポジションへの応募などで提出する通常版のフルCVは指導した学生リストやその他の情報を詳細に書くので30ページを超えている.
この短縮版のCVでもさまざまな工夫をしている.例えば,(恥ずかしいが多くの皆さんのためになると思って書くと)①比較的権威のある賞とフェローシップを抜き出して目立つように一番前に置く,②論文をリストするだけでなく,研究ビジョンとのコンテキストがわかるように,文章で簡単にこれまでの貢献を説明する,③良いジャーナルに掲載された論文がいくつもあるので,各論文は(ジャーナル名が目立つように)ジャーナル名の手前で改行してリストする,④研究室メンバーを教育してきた貢献がリストするに論文筆者の研究室メンバーに下線を引く,⑤学会は招待講演のみリストする,などである.皆話さないだけで,特に若いころから頑張っている研究者はCVのフォーマットのさまざまな箇所に工夫を凝らしていると思う.細かいフォーマットの妙で絶妙に伝えられることも変わるので,その順番などは自分に合ったものであったり,応募先によって何が最適かを考える.
CVは自分の研究者人生を記したデーターベースである
CVはもちろん,ジョブハンティングなどの機会で提出するものなのだが,そういった機会があるたびに改めて腕まくりして準備するようなものではない.例えば,CVには大学でのアカデミックな貢献についても記載してほしいと指示があった場合,5年前に担当委員だった委員会やその活動内容を思い出すことはほとんど不可能である.従って,日々情報を記録をしていない場合はそういった内容について求められても漠然と自分の大学貢献に対する姿勢しか書くことができない.
私は,フルCVの方では,上の短縮版に加えて,学生指導リスト(と学生のフェローシップや受賞歴),知財リスト,学会運営や大学の委員会の担当の時期とその内容,査読についても同様に数や時期について記載したものをメモをとるようにそのイベントが発生したときに記録する.毎年の授業の生徒数や学内でゲストレクチャーを頼まれたときも逐次CVに追加している.昔東京大学の先端科学技術研究センターで運動会の運営委員長をやったことがあったが,そういうことも書いている.上のリストで斜体になっているものは記録をとるのをやめてしまったが,いったんやめるともう途中のリストがなく,再開するのが難しくなるのでできるだけいろいろな事柄について他人に見せる必要がなくても日記のように書き込むようにしている.そうやって,フルCVはまず非公開版のデータベースのような書類としてつくる.そこには,後で情報をとり出せるように,例えば査読した論文はテーブルの形で管理して,自分が査読した論文のIDなどもすべて記録している.提出するときはこれらは黒塗りにするか削除する.フルCVさえ常にメンテナンスしておけば,公開しているような短縮版もそこから情報を抜き出す形で即座につくることができる.
CVでやってはいけないこと
また一般的にCVでは次のことは避けた方が良い.まず過度にCVにさまざまなデザインを盛り込んだ装飾をしない方が良い.パワーポイントのテンプレートのような背景や見慣れないフォントを使って,格好良いCVをデザインしようとする人がいるが,アカデミアのCVはデザイナーのポートフォリオファイルとかではないので,そういった無関係な角度で格好を付けてはいけない.それよりも普段見慣れたフォーマットとフォントでつくってあるCVの方が読みやすく評価しやすい.
投稿中の論文を“submitted to Science”などと書いてリストしてアピールしようとする人もいるが,サイエンスに投稿するだけなら誰でもできるし,その論文は2ページとかの内容の薄いものかもしれないので意味がない.本当に投稿中の原稿があり,査読前のものを評価されたいのであれば,bioRxivなどのプレプリントサーバーで発表し,そのリンクを貼れるはずである.一方で“under review at Nature”や“in revision at Cell”などeditorやreviewerの一定の評価が見えるものは書いてもよいと思う.
学生でよくある悪い例がスキルセットをただ羅列してあるものである.できる実験技術として,“qPCR,cell culture,…”と羅列したり,使えるプログラミング言語を“Python,R,…”などとリストしてあるものがあるが,これも参考にならない.本当にどのくらいレベルの手技や技術なのかわからないからである.そうではなく,実験技術であれば,「〜という実験をして,マウスのES細胞からトータルRNAを抽出してqPCRで定量した経験がある」というような短い記述があると良い.プログラミング言語であれば自分のGitHubのレポジトリへのリンクを貼り付けて評価者がコードを評価できるようにする.
また,特に海外に応募するときは顔写真,年齢,性別,その他プライベートなことは書かない.日本よりも差別的なバイアスを排除して,人口統計的なファクターに惑わされずに広いグループから採用をしようとする文化においては,そういった情報は入れない.
CVはキャリアパスの羅針盤かつモチベーションを上げるツールになる
私はCVを大学院生になったときからつくりはじめた.今私が管理しているCVも内容はもう20年も前から引き継いで内容をアップデートし続けてきたものである.当時はインターネットが普及したばかりで,世界中の人がプログラミングを学んでhtmlやwikiなどでウェブサイトを開設して自己紹介するのが流行っていた.そのせいもあって,研究者の世界でも自分のホームページでCVを公開して管理している人も多かった.それが格好良く見えたのかもしれない.はじめての査読付き論文が出版されたくらいのタイミングでwikiでCVをつくって公開した.同世代で同じことをする学生も他大学にもいた.また,素晴らしい成果を挙げて,当時日本でも20代後半でPIになるようなスーパースターの先生が出てきて憧れることもできた.若くて承認欲求も強かったからかもしれないが,友人やライバルだと思える同世代から自分のキャリアがみられているということが身を引き締めた.また私は今でもそうであるが,CVを更新するたびに「自分はなかなか思うようにいかないけど,頑張っているな」と思うことができる.さらに,CVは加算的な記録の追加になるので,自分が憧れる研究者のCVを見ると,その人が自分と同じ年代だったときのCVがどのようなものだったかは想像できる.そうやって,違う時代を生きる研究者でもその人と自分の差分について確認することもでき,記録のレベルで自分には何が足りないのか客観的に見つめることもできる.CVを常に管理しメンテナンスすることが重要なのは,それを使うときのためだけでなく,それをすることで一歩一歩自分が努力している軌跡を確認したり,自分を鼓舞したりもできるからである.若い人は,最初は何も書くことがないと思うかもしれないが,ぜひ自分が未来に向かう羅針盤としてCVをつくりはじめて欲しいと思う.
アカデミアの就職活動と組織力学
さて,早いものでもう次回が最終回になってしまった.最後は,キャリアパスの歩き方(後編)ということで,就職活動,推薦書の頼み方と書き方,アカデミアにおけるロイヤリティについて,アカデミアにユニークな組織力学に触れながら書いてみたいと思う.アカデミアは不思議な場所で,さまざまな人たちがいろいろな場面でオートノミーを発揮したり,他のことに忙しくなって他人任せになったり,理想にあふれたり,物事が知恵の輪のように絡まって硬直したり,素晴らしい人格者がいればちびっちょもいたり,同じ人が人格者とちびっちょの間を行ったり来たりする.学生であれ研究者であれ,アカデミアに身を置けるということは,それ自体が社会における特権である.理想のアカデミアとはどういうものかという議論も交えて私が考えていることも説明したい.本来連載で書く予定だったプレゼンテーション技法までは書けなかったが,読者の皆様の好評につきすぐにこの春,単行本にしていただけることになった.いくつかについてはそちらに書き下ろしたいと思う.単行本はこれまで書いてきたことも今一度整理して実験医学編集部と相談しながら編さんしたいと思うので楽しみにしていただきたい.
谷内江 望:ブリティッシュコロンビア大学Biomedical Engineering教授,大阪大学WPIヒューマン・メタバース疾患研究拠点(PRIMe)特任教授,東京大学先端科学技術研究センター客員教授.2009年に慶應義塾大学において生命情報科学の分野で学位取得後,ハーバード大学とトロント大学のFrederick Roth博士の下で研究員として合成生物学の研究に従事.2014年より東京大学准教授,2020年よりブリティッシュコロンビア大学准教授,2023年より現職.


